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2月16日 一橋慶喜が四賢候らを「愚物」と罵る(元治元、1864年)

へこたれはしなかったが、この罵声を聞いたときの大久保利通の悲痛、憤怒はどれほどだっただろうか?

なれない碁を手づるにして久光に接近し、率兵上京から江戸へ乗り込んでの幕政改革、帰り道の生麦事件、薩英戦争と幾多の苦難を乗り越え積み上げてきた。それこそ亡き島津斉彬公が示した道であり、久光公とずっと追いかけてきた夢だった。「英明な」一橋慶喜と久光ら有力大名や朝廷が力を合わせ、新しい日本をつくる。それが現実のものとして目の前に現れた瞬間に、あっけなく消え去ったのだ。

桜田門外の変以降、衰退する江戸幕府を尻目に、朝廷に接近しては影響力を競ってきたのが外様の薩摩藩と長州藩。攘夷親征にあと一息までこぎつけた長州が8.18政変で都から追放されると、文久3年(1863年)10月3日、大久保をはじめ約1700人の薩摩藩兵が京都に入った。率いる島津久光は、天皇から極秘の宸翰を受け積極的に動き回る。12月5日には、賢明な諸侯を朝廷に召して議奏とすべきであると提案。正月にかけて、以下のメンバーが「朝廷参預」に任命され、以後は二条城を会議所とし、二日おきに参内して天皇の簾前にて朝議に参加するというものだった。

徳川慶喜(一橋徳川家当主、将軍後見職) 
松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)
山内容堂(土佐藩前藩主) 
伊達宗城(宇和島藩前藩主) 
松平容保(会津藩主、京都守護職) 
島津久光(薩摩藩主島津茂久の父)

徳川慶喜


ところが対立は、2月15日の最初の会議からさっそく始まった。横浜鎖港問題で、開国を志向する久光らの諸侯と、攘夷志向の天皇に肩入れしようとする慶喜とが激しく衝突した。これを心配した中川宮が、翌16日に参預諸侯を自邸に招いて酒席を設けたが、泥酔した慶喜が中川宮に対し久光、春嶽、宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴論を吐いたのだ。

機嫌を損ねた久光は完全に参預会議を見限り、25日いち早く容堂が京都を退去し、3月9日には慶喜が参預を辞職。続いて他の参預も相次いで辞任した。参与会議はあっけなく決裂、解体した。

これまで、ひたすら支持し押し上げてくれた、恩人とも言うべき島津久光ら諸侯を面罵した徳川慶喜。諸侯が天下晴れて幕政に関与するようになったことを恐れていたのか?さらに「孝明天皇支持」をはっきりさせる事で、天皇と一体となった独自の政治基盤を固めようとしていたのか?それはやがて「一会桑政権」として姿を現す。

余談。この4年後、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦い(1868年)の劣勢に立った大坂城内で、家臣に向かって「この中で、大久保利通や西郷隆盛に匹敵するものはいないのか?」と罵倒したらしい。その4年前に、大久保利通が誰よりも強く臣下となるべく馳せ参じていたのに、、、門前払いしたことを悔やんだのだろうか?

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