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1月19日 空母「葛城」が進水(昭和19,1944年)

載せる飛行機もパイロットもいない空母はただの繋留船。その空母「葛城」が大活躍したのは、皮肉にも戦後に復員船として蘇ってからだった。

戦中は乗せる飛行機もなく、瀬戸内海の島影にひっそり隠れてたのが、戦後になって復員兵を満載して南太平洋のラバウル周辺まで脚を伸ばし復員船として大活躍した旧日本海軍の空母「葛城」(排水量=約2万㌧、乗員1500名)。

戦後、復員船として活躍した空母「葛城」。側面の「日の丸」はGHQの指定塗装。

1941年12月の真珠湾攻撃やマレー沖海戦で、航空機や空母が海軍打撃力の主力であることが実証されるなかで、「葛城」は雲龍型(中型)空母の3番艦として計画され、呉海軍工廠で建造が始まった。

しかしミッドウェイでの敗北を境に、空母機動部隊と海軍は力を無くしていった。戦局の悪化によって、「葛城」は搭載する艦載機もパイロットもなく燃料すら乏しくひっそりと錨を降ろしていた。10月25日レイテ沖海戦で空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)を失い、11月には大和型3番艦を空母に改装した「信濃」が、12月には姉妹艦「雲龍」が米潜水艦に撃沈され、外洋はおろか内海ですら米艦載機の攻撃を受けるになった。

1945年3月の呉空襲で米機の爆弾をくらった「葛城」は、迷彩塗装だけでなく、島との間に擬装網をかけ、飛行甲板には家屋や道路を設けるなど島の一部に見せかける対空擬装を施した。4月の戦艦大和の沖縄突入作戦では「葛城」が囮艦として随伴することも検討されたが、実施されなかった。

戦後、連合国軍による調査と武装解除の後、特別輸送艦(復員輸送船)として再出発した「葛城」は、被弾で盛り上がった上部甲板はそのままに、大型、高速性能をフルに活かし、ラバウル、オーストラリアなど南洋方面を往復し約5万人の復員兵を本土へ送り届け、1947年11月に解体された。

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