そして日常は、壊れる

雪が降っていた。

傘を差す人たちが脇をすり抜けていく。俺はそれをただじっと見つめる。

彼ら彼女たちには帰るべき場所があるのだろう。お土産用の包み紙も、夕食のためのスーパーの袋も、彼らの帰りを待つ人がいることを安易に知らせてくれる。


別になにかあったわけでもない。
俺にも家族くらいいる。
ただ、ここ最近、人の幸せがキラキラして見える。
それだけ。
それだけのことなのに、ひどく胸から背中にかけての部分激しく痛んだ。ずっと治らない。


しばらく立ち呆けていたが、風邪をひくのもバカらしいので、帰宅することにした。


もう、何年も通いなれた道は、猫の隠し通路まで知っている。昔はよくその通路をお借りしていた。


何の気なしに、塀を上り、細い細い猫道を一人歩く。一人歩く。

「なんですか?通れません。どいてください」

猫ではない。人だ。人がいる。女の子。

こんな真冬に、この猫道を通る人間などいる自分以外にいる露ほども思わない。

「何をぼーっとしているのです。どいてください。塀から今すぐ急降落下しなさい」

腰まで届くほどの黒髪と、猫のようなつり目の女の子だった。同じ高校の制服を着ている。しかし、こんなぶっとんだ知り合いはいない。

一切表情を変えずにこちらを見続ける少女。
こうしていても仕方がないので、俺は塀を降りるためにしゃがみこむ。

「なんで降りるのですか」
「いや、お前が降りろって言っただろう」
「降りろと言われて、降りるのですか?じゃあ、あなたは見ず知らずの他人に、もつ鍋の材料を二人分買ってこいと言われたら買ってくる人間なのですか」
「すまんが、その例えは、全然わからない」
「とにかく人に言われて、ほいほい従うのですかと言っているのです。自分の意志はないのですか」
「ないね」
「そうですか」

塀を降りようとした俺の服をつかみ、立ち上がらせた。そして、

「え」

俺の後ろに手を回し、寄りかかってきた。
つまり、俺は今、見知らぬ少女に抱き締められている。さすがの、俺も動揺した。そして、足を滑らせてしまった。

「うぉ!」

俺は身体をすばやく反転させ、下敷きになるように動いた。
直後、衝撃。痛み。

「ありがとう。ナイスガッツ」

先程まで、平静な様子だった彼女もさすがに慌てている。と思ったが、全くそんなことはなかった。
落ちた方が道路側のコンクリートではなく、民家側の庭だったことが幸いした。あとで、家主には謝っておこう。大切に育てていた植物もあったかもしれない。

「どういう神経してんだよ」

彼女はすぐに身を離し、手を差しのべてくれる。俺もそれに甘えて、立ち上がった。

「あまりにも泣きそうな顔をしてるから、抱き締めてあげたくなったの」
「いや、初対面だぞ?頭おかしいのか?」
「おかしくないわ。私がそうしたかったからそうしただけ」

普通の会話はできないだろうと踏んだ俺は、話を切り替える。

「とりあえず、家主さんに事情を説明して、謝ろう」
「そうね」

俺たちはすぐに、家主さんに謝罪の言葉と、後日、お詫びの品を持ってくることを伝えた。
すると、優しそうな老夫婦は、そんなことより怪我はないか、救急車を呼ぶかと、あたふたしていたので、それを宥めるのに時間を食った。

家主と別れ、家の門を出た。

「一応、名前聞いといていいか?」
「なんで?」
「いや、別に特に理由なんてないが」
「理由ないのに聞くのね。変な人」
「お前だけには言われたくない」
「お前じゃない。死神。みんなはそう呼んでる」
「バカにしてんのか?」
「してない。事実だから」

相変わらず、会話が成立しないことにやきもきしながら、俺はもう帰ることにした。

「じゃあな」

一言かけて、歩き始めると、彼女(自称死神)もついてきた。

「なんでついてくる」
「別につけてるわけじゃないわ。私も家がこっちなだけ」
「はい、そうですか」

俺は話を切り上げ、足早に自宅へと向かう。

自宅付近まできても、死神はついてきた。

「お前いい加減に」
「なにかしら。私は私がしたいようにすると言ったはずよ。あなた、一人暮らしでしょ。あたしも一人暮らしだからなんの問題もない」
「‥‥‥」

俺は驚きのあまり足を止める。
俺の解釈に間違いがなければ、こいつは見知らぬ男の家に今から上がり込むと言っている。それ以前になぜ、俺が一人暮らしだと知っている。

「お前、ほんと何者だよ。通報すっぞ、本気で」
「どうぞ。お好きに。あなたのしたいようにすれば」

おかしい。夢でも見ているのか。
互いに名前も知らないような関係なのに、なんでこんなことになっている。

「置いていくわよ」

彼女は、俺が頭を抱えている間に俺が住むアパートの前に立ち、

「せーの」

激しい金属音が響き、直後ドアノブが地面に転がる音がした。
この女、ドアの鍵をぶっ怖しやがった。いかれてる。

「ただいま」

相変わらずの無表情で、俺の部屋に入っていく死神。

ほんと、死神だろ。夢見てるんだな。俺は。
自分自身の心がそろそろゲシュタルト崩壊しそうなので、現実逃避をすることにした。


これは、平凡な男子高校生と、その日常を破壊し尽くす死神のような女の子の物語。