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「終焉のヤン」第二話

「ボヘミアの商人」

決闘状の話をする前に、まずはロキツァニ村でのこれまでの生活を語らなくてはならない。

時は1417年のこと。
プラハの評議員だった父が失脚してプラハを追放され、我がバルボジーナ家はピルゼン郊外にあるこのロキツァニ村に引っ越してきた。

父は評議員の傍ら貿易商も営んでいたのだが、失脚とともにプラハの営業本部と財産の殆どが、フス教団によって没収されてしまった。
だが幸運なことに、ロキツァニ村にあるバルボジーナ商会の支社は難を逃れていた。
僕たち一家はそこをたよってロキツァニ村を目指し、途中野盗に襲われたりもしたが何とかたどりつき、支社の一角に住まわせてもらうことになったのだった。


ロキツァニ村は西ボヘミア地区に位置し、すぐ隣には人口3000人の大都市・ピルゼンがある。しかしプラハから来る貿易商人らはほぼこの村を素通りしてピルゼンに流れるため、村の経済はあまり豊かではない。

それでも、都市部の高額な土地代や家賃が払えず、行き場を無くした貧しい鍛治職人などがロキツァニ村に移り住み、鉱山から採れた鉄を農具や馬具に加工したりして生計をたてていた。
バルボジーナ商会のロキツァニ支社は、そんな馬具職人を何人か雇って蹄鉄などを作らせ、ピルゼン近郊の貴族邸などに卸して細々と利益を上げていたのだ。
商会のオーナーである父は将来を見据え、商圏をピルゼンに延ばすための足がかりとしてこの支社に出資していたのだが、意外な形でそれが役に立った。
バルボジーナ一家がおおむね好意的にロキツァニ支社に受け入れてもらうことができたのは、父の出資のおかげである。

ロキツァニ支社の馬具職人たちを束ねる支社長は父の妻の兄で、つまり僕にとっては叔父さんにあたる人だ。名をジェホイという。
ジェホイ叔父さんには僕より9つほど年長の息子さんと、その1つ上の娘さんがいた。娘さんは、取引先の貴族に気に入られて数年前に嫁いで行ったとか。
息子さんのほうは、今はプラハ大学の芸術学部に在籍しているそうだ。

息子さんと僕は従兄弟ということになり、過去に会ったこともあるはずなのだが、どうにもその記憶が思い出せない。名前はヤン。
ロキツァニ村出身のヤンだからヤン・ロキツァナと名乗っている。

そのロキツァナさんがプラハ大学でヤン・フスと出会って感化され、フス教の活動家になったというのはこの辺では有名な話らしいが、ジェホイ叔父さんはその話をするといつも悲しそうな顔をしていた。
どうやら息子に家業を継いで欲しかったのが叶わなかったからのようだ。そういった親子関係の話というのは、中世の時代も現代の日本も似たようなものなのだな。

ともあれ、バルボジーナ商会のロキツァニ支社が無事だったのは、ヤン・ロキツァナが関係しているからかもしれないと僕は思った。
だとすれば、バルボジーナ商会はフス教団によってプラハを追われ、フス教団の関係者によって助けられたということになる。

後から知った話だが、フス教団はこのとき既に二つの派閥に分かれていたらしい。
それは自分たちの正義のためなら武力行使もアリという好戦的な急進派と、あくまで平和的に話し合いで宗教改革をしようとする穏健派の二派閥であり、ヤン・ロキツァナは穏健派のグループに属していた。
バルボジーナの支社に急進派の害が及ばないように手配してくれたのも、ヤン・ロキツァナだったとのことだ。自分の実家を守るために取った手段とは思うが、この時点でヤン・ロキツァナは教団の中でもそこそこの影響力を持っていたことが伺える。

さて、そのようにして穏健派のヤン・ロキツァナに助けられたバルボジーナ一家であったが、いつまでもジェホイ支社長の厚意に甘えてタダ飯を食う訳にも行かず、僕と父は馬具職人たちの手伝いをすることになった。
驚いたのは、プラハではあれほど横暴だった父が、この村では人が変わったように働いていることである。もともと一代で商会を立ち上げて成功させた父であったので、若い駆け出しの頃を思い出して活き活きとしている様子だ。

父は材料の買い付けなどが得意で、僕は父に連れられてピルゼンによく買い出しに行った。
そして、ピルゼンまでの短い道中で、父はいろいろと興味深い話を僕に教えてくれるのだった。
父がプラハで評議員をやっていた頃は、こんな親子の会話なんてなかったものだ。

「シモン、あの館を見ておけ。パビアンコフの城だ。」

と、父から語りかけられた僕は、一瞬アホな顔をしてしまった。
父親から名前を呼ばれたのがずいぶん久しぶりというのもあってか、自分の名がシモンであることを忘れていたのだ。

「聞いているのか?シモン。あれを敵にまわすか味方につけるかで、バルボジーナ家の命運が変わるのだぞ。まあ、今は差がありすぎて、我々は目もかけられないだろうがな。」

と、少し自嘲気味に笑っている父だったが、目は真剣であった。

父の視線の先には、遠く要塞のような館がそびえていた。ピルゼンの南西の門を守備するような配置にあるそれは、ピルゼンの富豪・パビアンコフ家の所有する館のひとつである。

パビアンコフ家は商家でありながら、下手な貴族よりも財力と政治力を持つ、ピルゼン地区でも屈指の有力者だそうだ。フス教団の急進派との繋がりが強く、教団のパトロンにもなっているらしい。

「くれぐれもパビアンコフには気をつけろ」、と父は念を押して言う。

「わ、わかりました。父さん。」

慌てて返事をしたが、それは日本語の発音での「トウサン」になっていた。
日本にいる父のこと、そして自分の意識が日本人であることを思い出してしまったのだ。

覚めることができなくなったが、ここは明晰夢の世界。
この時の僕はまだ日本に戻りたい願望が強く、それが叶わないと悟ってからは、無理をしてボヘミアの生活に慣れようとしているところがあった。
そんな僕にとっては、父が傲慢で横暴な人間でいてくれたほうが、僕の精神の均衡をたもつのに丁度良かったのだとその時思った。

親の情に触れてしまったら、本当の親のことが恋しくなってしまうではないか。

プラハを追われて職を失ったことによって、父親に人間らしさがもどってきた。そして父親らしい言葉を息子に語りかけるようになった。それは本来なら喜ぶべきことのはずだ。

僕の中に日本人の記憶がなければ、喜ぶこともできただろう。ボヘミア人として、この人の息子として生きる決意もできただろう。

不意に里心を刺激されたのを自覚した僕は、気を取り直してボヘミア語で返事を言い直した。

息子の不自然な返事を父は気に止めることもなく、会話は続いた。
程なくピルゼンに到着し、用を済ませる。

ピルゼンでの買い付けは上手く行き、その日は父と2人で、いつもより少し豪華な食事をしてからロキツァニ村に帰った。


さてさて、この出来事から2年後の現在、僕はピルゼンの貴族から訴えられて決闘を申し込まれることになるのだが、よりによってその決闘状には「パビアンコフ家」が絡んでいたのである。

起訴内容は、「パビアンコフ家の婚姻前の令嬢に乱暴して辱め、貴族ネクミージ卿との縁談をぶち壊した罪」だそうだ。


……身に覚えがないぞ?



(第二話 了)



おまけコーナー

人物紹介②「ヤン・ロキツァナ」(1390-1470)

1390年生まれ、または1397年生まれという説があります。

フス教団穏健派の中心的な人物でした。

ロキツァニ村の貧しい鍛冶屋の息子として生まれ、家業を継ぐのが嫌で村を飛び出してプラハへ行った、というエピソードが面白いです。
計画なしにプラハに行ったので金銭的に困窮し、物乞いをして暮らしたりもしていたのだとか。
ある日物乞いに訪れた礼拝堂で、ロキツァナはヤン・フスと出会った。ロキツァナはフスの教えに感銘をうけ、弟子となります。(正確には、フス教団幹部のストジーブラ先生の弟子となります)

以降は物乞いをやめ、プラハで貴族の子息の家庭教師のアルバイトをしながら大学にも通い、1415年に学士号を取得します。しかし間もなくフスの処刑などの動乱が起こり、大学の授業どころではない時代になってしまうのでした。ロキツァナが修士号を取るのは、フス戦争が収まる13年後になります。

ロキツァナはフス教団の中でも争いを好まないグループに入り、しばしば暴力的な急進派を非難した。
また、ロキツァナは平和的な交渉術にも長けており、プラハに起こる戦乱やクーデターをいくつか阻止して、プラハを戦火から守ることになります。

ロキツァナには姉がいて、どこかの貧しい貴族の家に嫁いで子をもうけました。
その子は成長してから「ボヘミア兄弟団」という平和主義団体の創設メンバーの1人となり、ロキツァナもそれを応援します。

実は甥っ子以外の家族の名前は資料がなく、いまのところ不明です。
ロキツァナの父を「ジェホイ」としたのはフィクションで、本当はジェホイは甥っ子の名前です。当時のボヘミアでは親子や親戚で名前を継承することが多く、おそらく孫に自分と同じ名前をつけたんじゃないかと逆算してみました。

ボヘミア人には名前のレパートリーが少なく、ヤンとかペトルとかつけていればオッケー的なものを感じます。
余談になりますが、ボヘミアの歴史書には名前の被りが多く、研究が大変困難なのであります。
フス戦争に登場する50人のヤンのうち、誰が「終焉のヤン」と呼ばれるようになるのでしょうね。
そもそも、私はちゃんと50人のヤンを描ききることができるのでしょうか。(笑)











おまけコーナー


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