相対的貧困は相対的主観で定義されている、だから終わらない

学生の頃、金持ちか貧乏かを
分けていたのは余裕の大きさだった。

ある先生は
「子供を学校に通わせられるかどうか」
で余裕をはかっていて、
他の先生は
「仕事以外に使える部分があるかどうか」
で余裕をはかっていて、
別の先生は
「可処分の割合がどのくらいあるか」
で余裕をはかっていた。

だから相対的貧困と言われても、
「○○ちゃんが持っているから私も欲しい」
とか
「○○くんがやっているから僕もやりたい」
という小学生のおねだりにしか思えず、
それがトレーディングカードゲームだったら、

必ず親には
「そのお金でアフリカに
どれだけ食料を届けられるか?」

と質問あるいは詰問されていた。

今親になっている人の話を聞いていても
「6000円もするプラモデル買ったら
すたみな太郎にみんなで行けないよ」
と言う親もいる。

会社でもそうだ。
「毎月一割投資をすれば
その一割が給与に反映される」
とか
「毎日8時間働いて
2時間残業できれば4日で1日休める」
と良く言われる。
2時間残業というのも
今は法令違反かもしれないが。

相対的であるかを抜いておいて
貧困であるのなら
昼は工場でライン作業を行って、
夜はコンビニでワンオペというのが
貧困なのだろうか。
家に帰って眠る時間もない。
家に帰って勉強する時間もない。
可処分の時間が存在しない。

とにかく貧困というのは
該当する相手を傷つける言葉だ。

それよりもスーパーマーケットなどで
レジでまごついたり
商品を選ぶ時に止まっていたら
後ろからつつかれたり、
肩をぶつけられたりすることが
無くなって欲しいと筆者は感じている。

そこに反論として
「絶対的客観」を提唱して、
収監されてトイレに10秒しか
行くことができなかったり、
借金を払うのが遅れたりしたからと
“持っていかれたり”、
身寄りがないからと村の人身御供に
されたりするなどの話を持ち出したり
貧困対策という名目で
コオロギ “などを”
食わされたりすることが考えられる。

それではなく、コロナ禍で
人々がお金を社会に回すことに
積極的でなくなり、
銀行の融資という借り入れや
ローンの申し込み、
お金の貸し借りの取引量が
少なくなったのなら
相対的貧困という言葉を使わずに
「お金を借りてください」と
言ってはどうだろうか。

相対的貧困の話題において、
「人口の80%が自家用車を所有
していて残り20%が所有してない」
としたら、残り20%に対して
自家用車を買うために必要なお金を
聞いて融資をしたり自家用車を
所有しなくても生活に不足がない
ように整備をしたり、
自家用車を共有、つまり
カーシェアリングを提案したり
買い物難民だから問題なら
宅配サービスを充実させたり
自家用車を所有するための資格の
敷居を下げてみたり、
などが相対的貧困の解決に
考えられるのではないだろうか。

ここまで話しても
「それはあなたが富める者だから
言えることだ」
と言われる諦めはあるが。

こうして見ているとまるで
社会主義的というか
全体主義的というか・・・。
モノカルチャー経済的だ。
一元的でもある。
「手段は問わない。」
「一番上がりの良い手段を選ぶ。」として
武器を複数持つことは駄目なのだろうか。
まるで野球以外もあるのに
野球しかやってはいけないと
強要されているみたいだ。
イニシャルコストですら
横並びにしている。
例えるなら「ファンの政治・経済」
になるのだろうか。

その武器を一つに絞ることも
包括性で選ぶところもあるのだろう。

話をまとめてみると
相対的貧困は範囲と基準に
依存している要素が大きいので
際限がなくなるということだ。

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