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炎は火だった
10年くらい前、家が燃えたことがある。
幸いにも燃焼はキッチンとリビングだけに留まり、全焼は免れた。
原因は祖父のタバコの不始末だった。
あれからというもの、もともと火に対して警戒心を抱いていたのがますます強固になり、アロマキャンドルですら焚くことを自粛しているありさまだ。
火事の際にリビングの窓から見えた部屋の中で炎が渦巻いていたさまや、消火後の水浸しの床、煤臭い壁、どろどろに溶けたガラスやプラスチックを今でもふとした時に思い出す。
炎というものは形なき怪物のようにうねり燃え盛りあっという間に日常を奪っていった。
けれど、火というものが弱々しい姿をしているのを見たことがあって、それをよく覚えている。
あれは火災から数年後、当時の恋人にキャンプに連れて行ってもらったときのことだ。
インドア派の家庭に育った私にとってキャンプは初めての体験で、まさか煮炊きするのに自ら火を起こさなければならないとは知らなかった。
ライターとか使うんじゃないらしい。
火は怖いものだと思っていたので、自分の手でその現状を発生させるということには正直腰が引けた。
けれど恋人が火打石を使い始めたところで腹を括った。
乾いているものがいいと集められていた葉片に、火打石で起こした小さな、本当にごく小さな火が灯った。
私はそこから一気に火が燃え盛るのだろうと身構えたのだが、なんとその火のかけらは一瞬で消えてしまった。
それを見て、火とは、あの日部屋を焼き尽くした火とは、こんなにも無力な一面を持つのだということを初めて知った。
その後も風を吹き入れたり木片を足したりしながら火を育てていった。
あの日家を焼いた火を育てている。
ものすごく不思議な感覚だった。
取り返しがつかないくらいの厄災すらもたらす火が、こんなにも弱々しく人間の手の内に収まっている。
史上初めて火をコントロールする術をみつけたニンゲンのことを思った。
きっとその火はあたたかかったんじゃないだろうか。
大雑把にまとめてしまえば、火の扱いは程度により適材適所であり管理には充分注意すべしということなのだが、私が体感したのはもっと情緒的なものだ。
あの日常を破壊する怪物のように恐ろしい炎が、小さな火種となり周りを温めることもあるのだと知ったのだ。
でもやっぱり未だに火は怖いけどね!
私がいま火というものについて思うことはこんなところだ。
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