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皮と骨について

わたしの好きな人はすれ違う女の子をかわいいと言うし、最近のアイドルや若い女優をかわいいと言うし、女友達にかわいいと冗談混じりで言う。女の子はみんなかわいい、よく言っている。
「あの人、あなたには冗談でもかわいいと言わないね」ある人に指摘された。
わたしも気付いていた。
彼はわたしを嫌いであるということはみんな知っているしわたしも知っている。これは憶測などではなく、友人が彼自身に直接聞いたことだから確かだ。

かわいいとは何か。肌が美しく、ひとつひとつのパーツが綺麗な形をしており、そのパーツが美しく配置されている。そういうことを意味するのだろうか。笑った顔、怒った顔、拗ねた顔、真剣な顔、そういった表情を指すのだろうか。それとも何か他にあるというのだろうか。

臨済宗の高僧である一休さんと、その弟子にあたる室町幕府官僚であり連歌師の蜷川新右衛門(親当)の道歌問答について触れたい。(一部抜粋)

振袖と留袖とこそかわれども
裸にすればおなじ身体よ
               一休

振袖は未婚女性が着るもの、留袖は既婚女性が着るものである。「未婚既婚こそ変わったけれど衣服を脱がせて裸にしたら同じ身体だ」と詠む一休さん。

骨かくす皮には誰も迷いけん
   美人というも皮のわざなり
               親当

「美人に誰しもが迷うだろう。しかし美人というものは骨を隠す皮の仕業である」と蜷川新右衛門は返す。

皮にこそ男女のへだてあれ
   骨にはかわる人かたもなし
               一休 

そして、「外見にこそ男女の隔てがありましょう。その皮の奥の骨には性別の違いは無い。」

化粧もうまくいってる。服も自分なりにイケてる。でもそれをとってしまえば何になる。たくさん飾っても元が良くなかったら、飾りを外してしまったら輝きが失せるかもしれない。かわいいあの人とかわいくないわたしは、化粧も服も全部なくしたら、すっぴんになったら勝負できるだろうか。じゃあ骨になったら。骨になったら同じ土俵にのぼらせてもらえるか。死んで、焼かれて、やっと。

美人に迷うのは皮のせいであるが、骨になった美人に迷うことはあるのだろうか。見てくれは醜くても最後は美人と同じ骨になると思うと、少し気が紛れなくも無い。
人を外見で判断するのか、それ以外で判断するのか。美人に迷うのは皮だけのせいなのか。

わたしが好きな人からかわいいと言われないのも、嫌われるのも、別に見た目がかわいいかわいくないの問題ではないと思う。自らで分析すると、なんて情けないことだろうと思うのだが、端的に心が醜いのである。卑屈で寂しがりで自意識過剰なクソ女なのである。結局は心が不細工だから皮に迷う以前の問題であるのだ。泣いてないけど実質泣いている。そんな気分。

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