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自分の実力を知る。

さて、この3日間ほど銃撃、選挙、落込、といろいろあって、まともな文章をかけていなかったので(それまでが「まとも」かどうかはさておき)、ちゃんと何かについて書きたいと思う。

最初はかなり抵抗があった「自分の絵をネット上に載せる」という行為。
前までは、ちょっと恥ずかしい、みたいな気持ちがあったはずなのだけど、これだけ毎日やっていると、感覚が麻痺してきて、ふつうにあげられるようになった。
文章もそう。昔はコソコソとブログを書いていたりしたけれど、いまはどんなものでも世に出せるようになってきた。これを成長と捉えない人もいるとは思うのだけど、僕的にはめちゃくちゃ成長である。

正直、絵も文章も大したことは描いて(書いて)いない。同世代にめっちゃすごい絵を描く人もいる。文章も見知らぬ誰かを楽しませられるほどのものは書けない。
でも僕は「大したことを書ける人間」かもしれないだとか「やればおれもできる」みたいな可能性を全部投げ捨てられたと思っている。つまりやっと「自分の実力」みたいなものを知ることができた気がするのだ。

自分がやっていることをSNSなどに出して、「読んでください!」と友達に周知することを、これまでほとんどやったことがなかった。
それは読まれたら自分に実力がないことがバレるかも知れないと思っていたから。ぜんぜん力が足りてないことを自覚するのが怖くて、せっかく知り合った人たちにぜんぜんだめだね、と思われるのが怖かったから。
自分に可能性のようなものがあると思っていたんだと思う。下手をすれば才能があるとさえ思っていた。「なにもない自分」というところまでようやく降り立つことができた。27歳でやっと。これが何よりの収穫だ。すごく自由になれた気がする。

そのことに気づけたのは、毎日なにも書くことがなかったとしても、絵を描いたり、文章を書いたりしてきたからなのだけど、なにふり構わずやり続けられたのは「僕がやらなかったら誰もやらないことだから」なんじゃないかと思っている。阿仁で僕が経験したことをそのまま絵にした。「僕自身の経験」を絵にしてくれる人なんて僕しかいない。その絵を世に出してみる、それに文章を付け加えて30日間書いてみる。これも僕しかやらないし、ここまでくるともう100%誰にもできないことになってくる。
代わりに誰もやってくれる人がいない、且つ僕自身がやりたいことでもあったので、もうやるしかなくなってくる。そういう、超個人的な使命感がなにかを続けるためには必要なのかもしれない。少なくとも僕はそのように感じている。

そうなると、自分の実力がまだ足りていない、とかそういうことは言ってられない。足りなかろうが、なにも書くことを思いつかなかろうが、やるしかない。どんなに下手くそだったとしても、「僕がやらないと誰もやらない」という根っこがあるから、「恥ずかしい」とか「バレる」なんてすっ飛ばせるんだ、と思った。よく自己を卑下して「自分に才能がない」と言う人がいるけれど、それはある意味で自分を守っている。才能がないからやらないという「やらない理由」を作っているだけだ。僕はかなり自信を持って「自分に才能がない」と言える。自己卑下としてではなく、事実として言えるようになった。自分がどう見られるのかを超えて、伝えたいことがあるというのは、かなりありがたいことだ。阿仁という場所に成長させてもらっている。

今日の絵はサルナシという木の実。めちゃくちゃおいしい山の実。断面はキウイフルーツのような見た目で、味もそんなだったかな?(いざ味を思い出そうとしたら忘れてしまっていた)。今年は山に入りながらサルナシが生えているところをチェックしながら歩いている。サルナシや山葡萄は熊も大好物で、実がなるころ、それら木の実を求めて熊も徘徊する。木の実の位置を把握することは、単純に木の実を採りたい人間としても、熊を仕留める人間としても、押さえないといけない重要なことだ。たくさん採れたらみんなに食べてほしい。こんなうまいもんが山になってるのかよ!と感動すると思う。

ということで、あと少しだけお付き合いください。
また明日もやってます。

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秋田県の阿仁という地域の絵を「狩猟採集民の絵」として載せています。 さっと見ていってください。 6月16日〜7月15日まで、毎日朝7時更新…

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