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熊と対峙し続けること

今から猟友会の総会である。11月1日の猟期のはじまりの前に年に一回必ず開かれる総会。2年前は知らないおじさんたちがたくさんいて、ちょっと怖くて居心地が悪い場所だったけれど、今となっては顔見知りばかりで、久しぶりに会う人もいたりなんかして、少しだけ楽しみだったりする。
マタギって結局なんなんだ、っていう話をいろんな人にいろんな角度から聞いてきたけれど、ひとつ間違いなく言えるのは、猟期が近づいてきて、血が騒いでいる人を見かけたらそれはきっとマタギだろうということ。みんなかどうか分からないけれど、山に入るとマタギの人たちと車ですれ違うことが多い。そこで話されるのはキノコのことや魚のことではなく、熊の糞がどこにあったか、ということだ。11月に入ってから熊を探すのではなく、10月の段階から既に猟が始まっているんだろう。熊の痕跡を見つけてアタリをつけておく。みんなことばにはしないけど、そうやってぐるぐると山を練り歩いているような感じがする。どんな仕事ももちろんそうだと思うけど、山の仕事は特に行き当たりばったりではやっていけないんだなあと感じる。準備の段階から始まっているのだ。

じゃあ自分はどうかと聞かれると、正直まったく準備できていない。猟期になって銃をもって山に入るつもりではあるのだけど、熊がメインというよりは来年のきのこを採ることをメインにした山の入り方をしようかなあと思っている。そこに熊がいればラッキーという感じだけど、99%熊には当たらないと思う。今年一年ずっと山に入ってきたけれど、熊にあったのは2回で、そのうちどちらも向こうに先に気づかれて逃げられてしまっている。しかも気配しか感じれず、姿は見れなかった。猟期になっていきなり熊に会いまくるなんてことは起きないと思うので、さあ猟がんばるぞーというよりは、来年きのこ採るぞー、のほうに気合いが傾いている。

猟をしている人と山に入ると、その人の中にすごく残虐的というか、凶暴な一面を見ることがある。蛇を見かけたら問答無用で木の棒を使って殺そうとする人がいたり、自分が珍しい柄の蛾だなあと思って見ていたら、その蛾を何も言わずサッと払って、殺そうとする人がいたりする・・・。自分からすると、唐突で、瞬間の出来事なのでいつも「えっ、、」と絶句してしまうし、「そこまでしなくてもいいじゃんか」という気持ちもある。そしてその場で言うこともある。なんでここまでするんだろうか。何か考えがあると言うよりは、体が勝手に動いているようにさえ見えるのだ。
そういう場面が年に何度かあるのだけど、それを見かけると、熊を長年相手にしてきた人間だからこそ、そういうある種の凶暴性や残虐性が身についてしまったのではないかと考えずにはいられない。
ふつうの人間なら「怖い」「逃げよう」と身体が反応してしまうような場面でも、あの人たちは戦わなければならないような環境に身を置き続けてしまったのだ。そうするうちにだんだんと身体が「逃げるより闘う」にシフトしていったのではないか。それが熊以外の少し危険な生物にも適応されてしまうのではないか。そういうかなりの暴論を僕は密かに考えている。

人間にもやさしく、他の生物に対してもできればやさしくいたい。でももうしわけないけど、僕の先輩方はすべての生物に対してやさしいとは思えない。でもだからといって、あの人たちが悪い人間だとも思わない。自分がどうありたいかという意識の問題とはかけ離れた世界を僕はあの人たちを観察しながら見れている気がする。本当の意味で猟に慣れてきた時、自分はどうなってしまっているのか。恐ろしくもありたのしみでもある。

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