見出し画像

嘘をつきたくない。

昨日、書くことがなさすぎて、なにかヒントがないかなあ、と学生のころに書いていた交換日記を読んでいた。Googleドキュメントを使って、友達と交換日記のようなことをしていたのだ。今でも1年に1回くらいの感じで書いたり書かなかったりする。2017年の7月ころの自分とその友達の様子が書かれた日記を読んでいた。自分はコピーライターの教室に通っていて、家族と富山県に旅行に行っていた。友達は卒論を書いていたりした。一緒に飲みに行った日のことや、徹夜でゲームをしたことなどをそれぞれに書いていたりもする。
友達の文章が素晴らしすぎて、よくこんな上手な人と何年も交換日記を続けられていたなあと思ったけど、改めて上手い下手関係なく、何かを書き残すというのはいいことだなあと思った。
その当時の自分達の思いに共通しているのは「嘘をつきたくない」ということだった。嘘をつきたくなくて、どうにかこうにか曲がりくねりながら文章を書いている。でも、僕の文章はどちらかというと書き殴りに近くて、嘘をつきたくないと思う割には、言い切った表現や、たぶん意味もわからず使っている難しい単語が散見されて、正直読んでいて気持ち悪かったのだけど、友達の文章はすごくよく考えられていて、きっと読んでいる僕のことを考えて、ここに書くのにもたくさん時間を使ってくれていたんだなあと感じた。

あのときのような文章に、今、なっていないことをただただ祈るばかりだけれど、思いや伝えたいことはあまり変わっていない気がする。自分も「嘘はつきたくない」。いや、「嘘をつきたくない」というよりは「よかったことだけを書きたくない」、かな。マタギをやっていてよかったこと、田舎から学べること、今の仕事のやりがい、そういうことだけを書くのではなく、腹立ったことや、気色悪いんじゃいってことも書きたい。読んでくれる人がいるので表現の仕方には工夫が必要だけれど、自分の視点になにか欠けていることがないだろうか?と自問自答し続けたい。
自分がこれからどうなっていくのか、どういう感じで見られていくのかわからないのだけど、その日記を見返していると「あ、おれこんなやつだったわ」ということを思い出した。たとえば「クレジットカードの引き落としとジムの引き落としが重なって、口座のお金がほぼ0円になったから、今日は梅田から石橋まで4時間かけて歩いて帰った」とか「なんか最近朝起きると胃がムカムカする。たぶんお米が腐っているからだと思うんだ」とか書いている。
梅田から石橋まで歩くのがしんどすぎて、途中自転車盗もうかなと思って自転車を探しながら歩いていたこと(結局盗まなかったけど)、だいぶ古くなったお米とわかっていたけれど、捨てるのは嫌だったから腐ってそうと思いながら全部食べたことなど、書いていることの周辺のことも思い出してきた。5年経った2022年のおれは、たぶんこんなことしないのだけど、こんなことをやっていた自分がいるしこんなことを思っていた自分がいる。この事実があるだけで、自分がどれだけアホで愚かな人間だってことを思い出せる。書き残していてよかった。もちろんまだまだある。
今の時代に長い文章を書いて、誰か読んでくれる人がいるのだろうか、と思ったりもしたのだけど、誰かに読んでもらうことが目的なのではなく、できる限り嘘をつきたくない、という自分の信念の表現として文章があるような気がしている。なにかのきっかけで自分の文章を読んでくれた人に、アホで愚かなおれがやってるんだよってことが伝わったらいいなと思っている。
今日も読んでいただいてありがとうございます。朝に書くのはいいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?