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猟記(八) 弱い自分。

遂に熊を見た。単独猟で熊を見つけたのは初めてだった。衝動を抑えられず先にツイッターにそのときの気持ちを書き込んでしまったので、その文章をそのまま載せる。

ついに単独猟で熊を見てしまった。熊に先に発見され、威嚇された。すごく高い声だった。 威嚇しながら坂を上がってくるので、殺されると思った。 アケビを採ろうと銃を木に立て掛けていたので、すぐに銃を置いていたところまで行き、弾を入れ元いた場所へ。
でももうそのときには威嚇音が聞こえるだけで、熊がどこにいるのか分からなくなっていた。坂を上がっていることだけは見えたので、林道を歩いていたらどこかで鉢合わせになると思い来た道を引き返す。
でも結局熊とは会えず、気づいたら車を置いた場所まで戻ってきた。足が震えて力が入らず、何度もこけそうになった。熊に逃げられたというより自分が逃げ帰ってきたという感じ。まじなにがマタギやねんと思う。なんの実力もないのに名前だけで祭り上げられてるだけ。
とは言え、ひとりで熊に会った時、熊がどんな風に行動するのか、自分がどんな感情になるのかわかったのは超収穫。次は弾を撃てるはず。
ほんと、一人前になれるように努力するのみ。マタギの名に恥じないようにやれることやる。

熊に発見され、威嚇までされて、銃は持っているもののほとんど逃げて帰ってくるようなおれが、マタギなんて名乗って言いわけあるかよ、という話。
他のひとが僕のことをどう認識しようがそれはもうどっちでもいい。マタギの人と紹介されることが多いので「あ、マタギやらせてもらってる、山田ですー」と初対面の人に挨拶をすることにしている。でも僕が自分のことを本当にはマタギだなんて思えない理由のひとつが、今日モロに露呈したなと感じた。

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僕は普段アケビの蔓を採ってるので猟の間も熊を探しながらアケビも探している。いつもはそんなことしないのだけど、今日はなぜか猟中にアケビを採りはじめてしまった。だんだんとひとりで行く猟にも慣れてしまって、手ぶらで帰るのはもったいないよね、と考えてしまっていたからだと思う。目的地まで着いて、熊の糞がそこら中にあるものの、僕の経験からするとかなり古めの糞だったので、「もうここらへんには熊はいないかなあ」と半ば諦めていたのもある。いろんな要素が絡み合った結果、帰りにアケビを採ろうと、そう判断した。
銃を木に立てかけて、アケビがたくさん生えている場所に行く。銃を持ったままアケビなんて探せないからだ。もちろん銃からは弾も抜いている。誤作動で発砲などしたら大変なことだからだ。さて、採ろうかと腰をかがめて林道から外れたところに入っていくと、下の方から「キュン」と高い声が聞こえた。高めの声だった。最初、鳴き声と認識できず、聞き流していたのだけど(森はさまざまな音がする)、キュンキュンキュンと三連続で鳴き声が聞こえたあたりで、その声のする方をみると、大きな熊がのそのそと歩いている。えっ!!と言った。ほんの数秒体が動かなかった。熊ってこんな声だったっけと考えたり、黒い毛が太陽光に晒されて紫色にも見えたのもあり、熊なのかなんなのかをコンマ何秒か考える無駄な時間があった。その無駄な時間の間も熊は鳴きながら移動している。坂を上がってくる(自分のほうにではなく、僕とは離れた方向に)熊を見て我にかえり「殺される」と一瞬にして思った。まじかまじかまじかと言いながら銃のほうに向かう。銃を取りに行ったものの、僕はこのときから逃げる側だった。銃を手に取って、弾を入れる。まだ威嚇音は止まない。50メートル先、いやもうちょっと近くにいたかもしれない。それくらい熊の声は僕の耳に届いていた。弾を込めた銃を構えて熊のいるほうへ歩く。声は聞こえるのに姿は見えない。どこにいったんだろう。次第に声も聞こえなくなってしまった。坂を上がっていたのだから林道で鉢合わせることになるかもしれない。とりあえず、来た道を帰ろう。そう思い、林道を歩いていく。石が多い場所だったのもあるけれど、足が震えて全然力が入らない。何度もこけそうになりながら、でも警戒は怠らず、まっすぐ林道を歩く。でもどこにも熊の姿は見当たらない。ふらふらふらふら歩いているうちに、自分の車をおいた場所まで戻ってきてしまった。でも、正直車まで戻ってきた時、本当に合わなくてよかった、と思ってしまった。もうめちゃくちゃ怖かったし、できれば合いたくなかった。もし林道で鉢合わせになっていたら僕は撃てていたのだろうか。それは当たっているのだろうか、生きて帰ってこれたのだろうか。放心状態になりながら銃をしまい車に乗り込む。逃げて帰ってきたのは僕のほうだった。
とにかく早く安全な場所に帰りたかった。こわいこわいとひとり喋りながら車を運転する。そして家について、このTweetをした。

今、僕ははっきりと言える。マタギと名乗ったらダメだ、と。まあこれまでも名乗ってはなかったけど、曖昧なこともあったので、はっきりと言える。ダメだ。
誰かに言われたりするのは別になんでもいい。その人の好きにすればいいと思う。でも僕自身がマタギを名乗って何かを語ったり何かをやったりすることは、もうはっきりやめようと思った。その域に達していないことを身に染みて感じた。ビビりすぎ。
でも逆に、マタギと言われて「はい、マタギやってます」と言えるようになりたい、とも本気で思えた一日だった。後から考えると、猟の最中にアケビをとること自体が熊を本気で撃ち取ろうなんて思ってない証拠だ。威嚇されてビビってしまうことも全く覚悟が足りていない。前に熊と対峙すること、というnoteの中で「熊と対峙し続けている人にはある種の残虐性がある」みたいなことを書いた。残虐性と書くとまた違うかもしれないけど、相手に気圧されている時点で獲れるわけがないのだ。本気で闘うつもりで山に入る。一瞬も油断しない。なんかそういうことが全く足りていないし、足りていないことを無意識の中で自覚しているからこそ、自分がマタギだなんて恐れ多いなという気持ちがあったのだろうな、と思った。こういうことはその場面に立ち会えないと本当の意味で気づくことはできない。

・・・

うん、でもほんとうに今日ひとりで山に入って、ひとりの状態で熊に出会えてほんとうによかった。これが師匠と一緒に行っていたら、他の仲間と一緒に行っていたら、また全然違う感想になっていただろう。ここまで深く反省したり、新たな気づきがあったとは思えない。ひとりで行ったからこそ、熊を逃した責任が100%僕に降りかかるからこそ、めちゃくちゃ意味のある失敗になる。自分自身が自分自身のことをマタギとは思えないのに、マタギとしていろんなひとに認識されたりすることに、なんだか嘘をついているような鈍い辛さを感じていて、マタギなんてことば使わずにやっていきたい、と思っていたのだけど、マタギと言われて恥じることのないような人間になりたい、って思った。
次、熊に会うときはまた全然違うシチュエーションだろう。全く同じ状況になることはまずない。でも今日起きたことは必ず次に活かせる。次は撃つ。当たらないかもしれないけど、でも闘う。逃げない。猟って自分の弱いところがめちゃくちゃ出てくるのだな、と大きな気づきをいただきました。

ということで、最後まで読んでくれた方、熱くなってしまいすみません。昨日に引き続き、構成など何も考えずの気持ち100%文章でした。ありがとうございました。

写真も撮っているので、少しだけでも猟の気分を味わえれば。(写真なんて撮ってるのもダメなのかも・・・。笑)

今日最初に発見した熊の糞。かなり時間が経っている感じだった。でも同じような糞が5、6個あったので、まず間違いなくここらへんにいた、もしくは今もいるとは思いながらの猟。
糞祭りで申し訳ないけれど、こちらは比較的新しいもの。林道をずっと歩いて、目的地まで着いた後、谷に降りようと坂を下っている時に見つけたもの。これはかなり新しい感じがした。この糞をした熊と出会った可能性があると睨んでいる。猟をしている最中はあんまりそのことに意識を向けられなかったことが、猟に集中しきれてないよなと思う。糞だけにまじで自分クソだった。
ここではないけど、こういう見晴らしのいいところを眺めながら歩く。こういうところにはいない。今日発見したところは竹藪だった。竹藪で何をしていたんだろうか。

すみませんこれだけしかないけれど、なんとなくイメージでも伝われば。ああ、ほんと越えないといけない壁だらけだ。

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