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過渡期2

きのうの続きみたいな話。
自分がやっていることだとか、考えていることをあまり肯定できずにいた。こんな長ったらしい文章を毎日書いときながらよく言うぜって感じだけど、HUNTを作ってなかったら文章を書くようなことは間違いなくやってないと思う。書く必要がないし、自分のことを知ってもらう必要もないから。でもHUNTをやる以上、主役は山のものだったとしても、それを扱っている自分自身のことを知ってもらったり、なんでこんなことをやっているのかみたいなことって、書いていく必要があると思った。
冒頭に戻るけど、やっぱり自分のやっていることや考えていることをずっと肯定できないでいた。自分のやっていることってはたから見れば道楽のようにも思われてしまう。実際そういう面もある。自分は妻がいなかったらこの事業を始められなかった。営林署で最低限の稼ぎはあるけれど、自分一人で稼ぎとやりたいことを両立することは、僕にはできなかっただろう。なので、道楽とみられても仕方がないのだ。肯定できないでいた理由はきっとそこで、僕自身も僕自身の活動をある種の道楽のように捉えていたのだろう。好きな時間に起きて、気分がのらなかったら休んで、なにか目標があるわけでもなく、やりたいことを好きなだけやる。山に行くだけで仕事をした気になっていた。はっきり言ってこれは仕事ではなかった。道楽だったと思う。

そのことに気付かされたある日のことがあり、その次の日からバチッと意識を変えた。もちろん今でも怠惰な日はあるけれど、今僕は自分のやっていることや考えていることを少しずつ肯定できるようになってきている。そしてなんやかんや言いながらも毎日書く自分や、山に入って予定通り何かを採ってくる自分を毎日確認しながら、また少しだけ自分のことを肯定する。その積み重ねがじわじわと周りに滲み出ているのか、Twitterを見て仕事をくださる人がいたり、noteを取材したいと言ってくださる人が出てきたりしている。ほんとうの因果関係はわからないけれど、意識が変わったその日から、そういうことが急にポコポコと出始めたので、きっと何かがあるんだろうなと思っている。

そして、つい先日の「マタギの岩魚で日本酒を呑む会」で自分の作った岩魚の燻製をはじめてお客さんに提供したことも、自分の心をじんわりと温めるような出来事だった。そのイベントで岩魚の燻製に対するうれしいことばと、それに見合うお金をしっかりいただいた。そのことで「ああ、自分がやっていることは意味があることかもしれない」ってまた少し思うことができた。そしてあんまり山のものに興味がない妻にとっても、そういうお客さんの反応は新鮮だったようで、自分のことのように喜んでくれたこともまた嬉しかった。妻の忖度なしの反応には「キーッ」ってなることももちろんあるんだけど、逆にいいときはほんとうにいいと思ってくれていることが伝わるので、すごく信頼している。いろんな意味でやってよかったイベントだったなあと心から思っている。

そういう感じで少しずつではあるけれど、前に進んでいる実感がある。どこまで行っても、自分のことを完全に肯定するだとか、正しいだとか思うことはこれからもないのだろうなと思うけど、やるべきことをやった上で「こういう人もいるんちゃう?」って自分を肯定してあげられたらなと思っている。

ということで今日も書きました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。今日はこれから秋田市内に行ってマルシェのための買いものをした後、夜「稲とアガベ」のイベントに行って刺激をもらいに行ってきます。めちゃくちゃたのしみです。

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