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続・早とちり

※この話は以前書いた【早とちり】の後日談です。先にそちらを読んでからどうぞ。


 執筆缶詰旅行から帰って来て、2週間ほどになろうとしていた。

 海辺の生活はこれまでのどの気分転換より効いたらしい。
 夜の海を散歩した翌朝から、行き詰まって家を出た前日が嘘のように、すこぶる作業が捗るようになった。
 書いた、というよりは、頭の中に湧いた文章を文字に起こし続けた、と言った方が正しいかもしれない。寝食を忘れて書き留め終わった頃、延泊を重ねた滞在は1週間が過ぎ、手元には3ヶ月分の原稿のストックが出来上がっていた。

 そうして迎えた長めの夏休み。
 世の中は猛暑真っ盛りの8月半ばに、俺は空っぽになった頭で畳に仰臥して、天井を見つめているのだった。

 数日前から、体がダルくて仕方がない。

 長いこと引きこもって書き物をしていた反動か、運動が足りないせいか、単なる夏バテか、そろそろ中年と呼ばれる年齢のせいか。

 色々とそれらしい理由はあるものの、あともうひとつ、俺には思い当たる節があった。

(ああ、旧盆だ…)

 寝返りすら億劫でこのまま一日を終えたいところだが、やらなければならないことが出来てしまった。それに、午後になろうというのに食事らしい食事もしていない。食欲は無いが、食べないわけにもいかない。

 膝に手をつきながら立ち上がる。関節が痛みで軋む。口からはくぐもった呻き声が出た。よっこらしょすら出ないとは情けない。

 扉を開けると地獄の釜のような暑さだった。吸った空気に喉が焼かれそうだ。
 住宅街の屋根の間を走る細長い青空の先に、重々しくも眩しい入道雲がそびえ立っている。城下町の奴隷のような足取りでショッピングセンターに辿り着き、自動販売機の前で何年ぶりかのスポーツドリンクを飲み干した。

 入り口付近のギフトコーナーでお中元の返礼を手配する。原稿の進みに感動した編集担当から、ご丁寧に手紙付きで送られてきていたのだった。

『先生、最近調子が良さそうですね。』

 傍から見ればそうなのだろうか。
 あの執筆期間に、筆が乗っている実感はひとつもなかった。脳内をなにかに支配されたような感覚すらあった。あれは果たして俺自身が書いたものなのか。誰かに書かされたような気がしてならない。

 そして俺にはそれが、海で出会ったあの少年の仕業なのだろう、という確信めいたものをずっと抱えていた。

 確からしい理由は枚挙に暇がない。

 まず、家のテレビのチャンネルが変わるようになった。

 何事かと思うだろうが、いつも見ているニュースが、よそ見をした隙にモノマネ歌番組やバラエティに変わっていることがよくあるのだ。あと、庭にやたらと猫が居着くようになった。それから、定期的に頼んでもいないピザが届く。気がついたら枕が新調されていた。買った覚えのない少年誌が部屋に転がっていることさえある。一昨日はついに、そろそろ還暦を迎える海外アーティストの冬の来日コンサートチケットが届いた。

 とにかく、ちょうど旅館から帰った頃から、一人暮らしのはずの俺の部屋に、第三者の存在感がありありとし始めたのだ。

 現世に執着してしまうと転生できなくなるだろうと思い、昨日部屋の隅に盛り塩をしたところ、今朝方、塩を盛った小皿が家の大黒柱でぶち割られていた。案外気性の荒いタイプなのかもしれない。

 今のところ生活に大きな差し支えはない。
 しかし、旧盆を迎える時期に体がダルいとなると話は別だ。墓参りシーズンに体が動かないほど霊的な力が強くなるのだとしたら、このまま我が家で力を蓄えていつか生活の総てを乗っ取られるのではないか、という疑念が拭えないからだ。

 それに、彼を執筆のビジネスパートナーにするにも不安がある。
 これ以上あんな身を削り出す書き方をしたら体がもたない。そして、あの体験に慣れてしまえば、彼なくしては物書き業が成り立たなくなってしまうのではないかという恐怖もある。俺は好きを仕事にした、ザ天職、というタイプの物書きではない。難なく原稿が上がることへの一応の感謝はあるが、人生の行く末を誰かに握られてしまうのはやはり怖い。

 ごちゃごちゃとした考えをまとめながら、ファストフード店に寄る。
 とにかく彼にはこのお盆のタイミングで、速やかに、穏やかに、他のご先祖の皆様と共に、そういう極めてスムーズな流れでお還りいただくほかないだろう。

「すみません、ホットのココアください。」

 無かった。夏だからだ。頭では納得しているが、俺が思いつく少年のこの世の未練がこれくらいしかない。思い返せば彼に出会った時、ココアを買おうとしておしるこのボタンを押した、というどうでもいい雑談以外に、はっきりとしたことはほとんど聞いていなかった。
 お渡し口で商品を待っていた男子高生が、2人揃ってポカンと口を開けてこちらを見ていた。わかるよ。でも、おじさんにも色々と事情があるんだ。
 俺は、スーパーに向かってそそくさと逃げ出した。

 買い物カゴに弁当と、特売の胡瓜と茄子を入れる。次に50膳入りの割り箸。
 胡瓜の馬でやって来て、茄子の牛でゆっくり帰ると言われるアレだ。
 もうこちらに来ているのは承知の上だが、両方くれてやる。どっちに乗ってもいいから無事に還ってくれ。さっき買いそこねたココアも買ってやるから。

「ミ○でいいだろ、アイツは。」

 姿こそ見えないが、俺との同居生活に馴染み始めている少年をアイツ呼ばわりしながら、スポーツマンの躍動感あふれるイラストが載った緑のパッケージを手に取った。
 伸び盛りにあんなヒョロヒョロだから海に流されちまうんだよ。カルシウムとれ、カルシウム。

 変な汗をダラダラとかきながら帰宅し、弁当を胃に流し込むと、カーテンの隙間からは西日が強く差し込み始めていた。重い体を床に横たえて、日没に間に合うように野菜に割り箸を刺す。栄養価の高そうなホットココアも淹れた。

 今夜、近所の川では、ひとつ500円で灯籠を流してくれる。
 500円玉ひとつで現世をうろつく魂がどうにかなるなら安いものだ。早く身軽な体を手に入れたい。原稿もぼちぼちでいい。平和が一番。ラブアンドピース。

 フラフラと川岸に出て、灯籠に名前を書いて火を灯し、川に向かって列をなしている老若男女に加わった。
 並んでいる人はみんな近所に住んでいるはずなのに、意外と顔見知りには会わないものだ。

「すみません。ご予約いただいている方で、どうしても来られない方の灯籠を流していただけませんか?」

「ああ、いいですよ。」

 スタッフに手渡された灯籠も一緒に水に浮かべ、手を合わせた。

 さあ、これでおしまいだ。
 俺は今日、あの少年に精一杯尽くした。よくやった。これできっと安寧の日々が帰ってくるはずだ。誰か知らない人の分も流すという善行もした。いい気分だ。心なしか体もふわふわする。湿り気を帯びた風に体が押されるようだ。

 静かに目を開けて、ぶつかり合いながら流れゆく灯りをぼんやりと見つめる。辺りはもうだいぶ涼しいのに、川に反射した無数の灯りに、照らされた頬が熱い。
  
 名も知らぬ同世代の不幸な少年よ、どうか安らかに。

 そう念じると、和紙の向こうの火が返事をするようにゆらりと揺れる。そうして、水の流れに押された俺の灯籠がゆっくりと回り、書いたはずのない筆文字がくるりとこちらを向いた。

『ただの夏風邪だから早く治してね。またお彼岸に。』

 目をこすりながら何度か見直すと、灯籠はまた向きを変え、他の幾重にも重なる灯りに紛れて行ってしまった。

「また来るのかよ…。」

 髪を撫ぜる生温いそよ風に乗って、カラカラと少年の笑い声が聞こえた気がした。

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