カーテン

 やってしまった、そう思ったが後の祭りだった。

 縁から外れたプラスチックレンズと、真ん中で折れつつある紺色のフレームが、俺の手の下でアルミニウムの悲鳴を上げていた。

「わわ、ごめん、委員長!」

「いいよ、伊達だし。」

「ないと不便だろ。これから眼鏡屋に…え、伊達?」

「そう。度、入ってないの。」

 窓際のカーテンが翻る度に、唸るような蝉の声が、布の隙間から教室に響く。
 机の上のひしゃげたフレームを見つめながら、彼女は静かに答えた。

 ふざけて、よろけて、手をつく場所が悪かったのだ。
 周りには食べかけの小さな弁当箱と、開きっぱなしの教科書に、ポケット英和辞典。眼鏡を壊さずとも、何らかの被害は免れなかっただろう。
 周りの共犯者たちは、バツが悪そうに謝罪のタイミングをうかがっている。

「だから、大丈夫だから。急ぎじゃないし、雑貨屋のだし。」

 視線が迷わずに俺をとらえている。思えば去年までの彼女はかけていなかったかもしれない。
 レンズが曇りそうなほど、じわじわと蒸した外気が、まとわりつくように肌を撫ぜる。アスファルトに出れば、蜃気楼でも見えそうな陽気だった。

「わかった。じゃあ、次のを買ったらレシート頂戴。その金額を払うよ。雑貨屋のでもなんでも。ごめん。」

 雑貨屋の眼鏡とは、いくらくらいのものだろうか。
 俺は手の甲で自分の眼鏡を押し上げながら、鼻あてに溜まった汗を拭った。

「一つ聞きたいんだけど、それはどこのお店で買ったやつ?」

「駅前の眼科の隣だけど?」

「そう。」

 レンズの縁に指をかけて、ずれてしまった焦点を戻す。面と向かっている時に鼻あてをずり上げるのは、俳優の仕草のようでなんだか気恥ずかしい。

「うわ、どうしたの、ソレ。大山の?」

「違うよ、委員長の。」

 クラスいちバカでかい声の野次馬が近づいてきた。
 昼休みももう終わりだ。
 遠巻きに見ていた奴らは委員長にペコペコしながら自分の机に帰っていった。

「前に大山が掛けてたやつに似てねえ?」

「そう?よくあるデザインじゃん。」

 俺が事の次第を説明し終える頃には、委員長は席について生物の教科書を開いていた。教科書の端に握りしめたハンカチが薄っすらと湿っている。

「あーあ、壊しちゃって。次、困るんじゃねえの?ヤマセンの字、ミミズみたいじゃん。」

「伊達だから大丈夫だって。」

「え?どういうこと?」

「だから、度が入ってないやつだから大丈夫ってこと。」

 しつこい問いかけに振り返りもしない彼女の隣から、代わりに背後の野次馬に答える。

「えー?なんでこんなクソ暑いのに伊達眼鏡なんてかけてんだよ。なあ、委員長、なんで?」

「そこ聞くのかよ。」

「え、なんでよ。気になんじゃん。あ、そういえば委員長、明日の英語の課題ってもうやった?」

 風に煽られて窓際の小さな横顔に当たったカーテンに手を伸ばして角を捕まえると、工藤は腰を上げて彼女の顔を覗き込んだ。

 その瞬間に響いた予鈴に掻き消されそうなほど小さく、工藤の下で、委員長の口が動いた。

「アンタには教えない。絶対に。」

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