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焼肉

「今まで言い出せなくてごめん。実はここ、事故物件だったんだ…。」

 大学を卒業し、4月に入社して、早3ヶ月。

 新入社員は、この部屋の家主の松下の他に、岡本、平川、工藤の男ばかりが4人。
 部署は違うものの、全員が上京組で周りに知り合いが少なく、皆で示し合わせては目新しい飲食店を開拓したり、誰かの家に集まったりするようになった。

 中でも、会社のあるオフィス街から私鉄で10分、駅徒歩7分に住む松下の1DKは、同期の恰好のたまり場で、今日も4人で食卓を囲むことになっていた。

 しゃもじについた米粒を茶碗の縁で刮ぎ取っていた松下が、突然、手をパタリと止めて話しだしたので、この3ヶ月間、毎月のように訪れては夜を明かしていた来客たちは、どんな顔をしたらいいかわからなくなってしまった。

「何系の事故?」

 数秒の沈黙のあと、さっき金を出し合って買ってきたばかりの小皿に老舗メーカーのタレを注ぎながら、平川が口を開いた。

「放火。部屋がきれいで考えもしなかったんだけど、兄貴に安すぎて気持ち悪いって言われて、そういうサイトで検索かけたらドンピシャだった。うち、実家には頼れないから、とにかく安いところ探してて…。」

 気が付かされるまでは、本気で、掘り出し物の自分だけの城のように思っていたのだ。

「月いくら?」

「3万8千円。」

 ということは、会社から支給される3万円の家賃補助を引くと1万円でお釣りが来る。
 引き算が終わった者から順に、おお、と感嘆の声が漏れた。

 この部屋は、破格の家賃と都会へのアクセスの良さだけでなく、風呂トイレ別、鏡台の付いた洗面脱衣所、センサーロック機能付きの鍵、IHコンロは2口など、住み心地への細かい配慮が行き届いていた。
 更に、一面だけ壁紙が違うモダンなフローリングの居室は、ベッドを置いてもなお、残りの3人が雑魚寝できるだけの広さがあり、薄給の新卒が住むアパートにしては見栄えのするものだった。

 物腰が柔らかく素直な松下は、てっきり金に困らない生まれ育ちでこの部屋に住めているのだと、今の今まで誰しもがそう思っていた。

「へえ〜。俺んとこ、駅近だけど駅自体ここより遠いし、1Rで9万もするんだよね。松下が住んでてなんにもなかったら空き部屋に越してきちゃおっかな〜。」

 茶碗の湯気で眼鏡が曇ったままの岡本が、呑気に現実的な話を始めたので、それまで固まっていた工藤も再び菜箸を動かし始めた。
 平川はその後ろで、空になった発泡スチロールをゴミ袋に詰める。

 ホットプレートの熱気が、汗をかいたワイシャツの背中越しにも伝わってくるようだった。

 松下がグラスやマグカップに氷水を入れる。
 器の数が少ないので、米をよそった食器も、ご飯茶碗の他に銘々皿や汁椀が混ざっていた。

「他の部屋は家賃2倍だよ。それでも安い方だけど。」

「げ。それは要検討。」

「俺んとこ、岡本んちと同じ最寄り駅で2DKで10万ちょいくらいだよ。駅からは歩くけど。」

「工藤はルームシェアだから実質半額だろ。」

「岡本はこないだできた彼女と住めばいいんじゃねえの?はい、みなさーん!カルビ焼けましたよ〜!」

「無理無理、まだ彼女に趣味の話とかしてないもん。あ、次、タン塩焼いていい?」

 じゅわっと、勢いよく有機物が焼ける音とともに、湯気の混ざった香ばしい煙が上がる。

「暑いね。匂いもこもるなあ。」

 この暑さで、焼肉なんて、誰が言い出したのか。

 何日か前に梅雨が明けてから、熱帯夜が続いていた。

 冷房をかけたまま窓を開け、外に向けて扇風機を回す。
 それでも部屋の中心に熱源があるので、箸を動かすたびに汗が止まらなかった。


「ところで僕さ、松下んちから帰る時に社長っぽい人が乗ってる車とすれ違ったことあるんだけど、もしかしてドッペルゲンガーだったのかな…。」

 鉄板の熱が冷めた頃、ポツリと平川が呟いた。

「平川ぁ…いくらなんでもうちの社長を心霊現象にするなよな…なあ、松下。」

「う、うん…。」

「あんまりイジりすぎるなよ。松下にも事情があるだろ。お化けが怖けりゃ誰かいた方がいいし、また遊びに来るから、松下も辛気臭え顔すんなって。」

 じゃ、俺、そろそろ帰るな。と、工藤が立ち上がる。

「おいおい、なんだよ工藤〜!かっこいいこと言うだけ言って、抜け駆けか〜?」

「いや、一緒に住んでる奴と用事あったわ!」

「夜道気をつけろよ!あと次お前が片付け係な!」

「僕たちの知らないところで工藤の背後に忍び寄る影が…」

「わかったから!やめろ!平川!やめろ!」

 3人はすっかり元の調子に戻ったように見えて、飛び交う冗談の下で、工藤を見送りながら、松下はほっと息を吐いた。

 安心したら、なんだか立ち上がれなくなってしまった。

 一人減っても部屋は暑い。

 少し飲みすぎたかもしれない。

 扇風機を部屋の内側に向ける。

 岡本が流し台でビールの空き缶をゆすいでいる。
 その横で、平川が、手際よく鉄板を擦っていた。

 ああ、体が、熱い。

 一刻も早く、水に浸かりたい。


「松下、松下、大丈夫?」

 平川の声がして、はっと我に返った。
 頭には絞ったタオルが置かれていた。

「一時間くらい寝てたけど平気?僕たち先に風呂借りたよ。水飲める?」

「ごめん。片付け全部やってもらっちゃった。」

「家借りてるんだし、このくらいさせてよ。」

 もう大丈夫、と上体を起こすと、岡本が脱衣所からひょっこり顔を出した。

「お、松下起きた?お前があんな事言うから風呂入るのドキドキしちゃったねえか!ひゃ〜涼しい〜!」

 上半身裸のまま、両手を広げて小走りで扇風機に向かってくる。

「シャワー浴びてる時、後ろに誰かいるんじゃないかとか思ってさ〜!」

 水音しか聞こえないし、眼鏡外してるから周りも見えないし、なんか怖くなっちゃって。
 シャンプーしながら横見たら、黒い髪で顔の隠れた人が立っててさ、叫びそうになったけど、それ鏡に映った俺〜!みたいなベタなやつやっちゃった!ちょっと前髪伸びすぎ?そろそろ切ろっかな!アハハ!

 岡本は回転している扇風機の羽に向かって顔を近づけて、軽快に喋っていた。

 時折、彼の声が小刻みに震えるので、松下は話を聞き違えたかと思った。

「え?」

「だからさ、前髪がこ〜んな長いから。」

 岡本は風に靡く前髪をつまんで鼻先まで伸ばして見せた。

「岡本って意外と怖がりなんだね。そういえば、3人で鏡越しに写真撮ると真ん中の人がどうこうって迷信あったよね。こういう日だし、僕のスマホでいいから撮りに…あれ?」

 話しながら違和感に気付いた平川は、松下と顔を見合わせた。
 この部屋の鏡といえば、脱衣所の鏡台、玄関の姿見、それから…。

 松下はもう、言葉が出なかった。

「岡本、どこの鏡見たって?」

「え?シャワーに向かって左側の壁。」

「松下、引っ越しなよ。僕んち狭いけどしばらく泊まっていいから。」

 平川が心配そうに顔を覗き込むので、松下は頷きながら、縋るようにシャツを掴んだ。

「えっウソだろ?俺、見たってば、マジで。」

 浴室の方を振り返って慌てだした岡本を見て、どうにか声を振り絞る。

「うん、あのね。俺んちの風呂、鏡なんてないよ。」

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