読書案内 1978年の岩波文庫ジュニア60
はじめに
岩波書店の岩波ジュニア新書の創刊は、1979年6月21日の「思春期の生き方」でした。
その前年である1978年(昭和53年)、岩波書店がおそらく⼩学⽣(?)、中学⽣、⾼校⽣を対象に岩波⽂庫からチョイスした60冊の⽂庫本セットがありました。分冊もあったので、全67冊になってました。当時の岩波文庫は、☆の個数で値段が表示されており、☆が1個で100円、☆2〜3個くらいの値段帯の本が多かったと思います。今ではもうほとんど忘れられてしまった本もありますが、古典は今でも残っています。
黃帯
まずはジュニア向けなので、お伽話であるかぐや姫の物語から、ということだったのでしょう。
次に、濃厚な平安女流文学は飛ばして、親しみやすい室町時代のエッセイを。
和歌はジュニアにはまだ大人の領域だったので、ここは俳句の巨人松尾芭蕉を。
小学生にも読めるようにとの配慮かと思います。
緑帯
明治大正文学の2大巨頭である森鴎外と夏目漱石から。森鴎外は、読みやすい口語体で、大正元(1912)年9月13日の乃木大将の殉死をきっかけに、江戸時代の殉死を描いた歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「佐藤甚五郎」。
夏目漱石の後期三部作の最後、大正3年の朝日新聞の連載小説であり、漱石の代表作かつ教科書の定番。岩波書店最初期の出版物でもあります。
自然主義文学から島崎藤村の写生文を。島崎藤村には、「破戒」「夜明け前」などの力作もありますが、ジュニアにはこちらを。
樋口一葉は5000円札の人であり、明治5(1872)年5月2日に生まれ、明治29(1896)年に早世した作家で、明治以降の初の女流職業作家と言われています。ただし、雅文体です。
白樺派の作家志賀直哉の短編集。「小僧」は今で言う中学生の年頃のでっち奉公に出ている少年で、小僧が鮨を奢られるというお話。「小僧の神様」のほか、「正義派」「赤西蠣太」「母の死と新しい母」「清兵衛と瓢箪」「范の犯罪」「城の崎にて」「好人物の夫婦」「流行感冒」「たき火」「真鶴」収録。
北原白秋は耽美派の詩人で、この詩抄は「邪宗門」「雪と花火」「白金の独楽」「水墨集」「海豹と雲」からの本人自選の抄です。「思ひ出」や童謡は収められていません。
教科書文学には欠かせない芥川龍之介の短編集です。「河童」「蜃気楼」「三つの窓」の3作が収められています。死期が近づいたころの作品であり、ジュニアには王朝物の方がよかったのではないかと思いますが、「河童」そのもののインパクトで選ばれたのではないかと思います。
宮沢健二の童話集。詩人谷川俊太郎の御父上の哲学者谷川徹三の編。収録作品は「風の又三郎」「セロひきのゴーシュ」「雪渡り」「蛙のゴム靴」「カイロ団長」「猫の事務所」「ありときのこ」「やまなし」「十月の末」「鹿踊りのはじまり」「狼森と笊森、盗森」「ざしき童子のはなし」「とっこべとら子」「水仙月の四日」「山男の四月」「祭りの晩」「なめとこ山の熊」「虔十公園林」「グスコーブドリの伝記」の19作。「銀河鉄道の夜」や「注文の多い料理店」を外し、ジュニアに読みやすいようにという配慮で短編集が選ばれたものだと思います。
岩波書店としては絶対に外せないと思われるプロレタリア文学の小林多喜二の著作です。「蟹工船」は超有名作、「一九二八・三・一五」は共産党弾圧事件の3・15事件を題材にしたものです。こちらには「党生活者」は収録されていません。
太宰治の教科書文学「走れメロス」を含む短編集。「魚服記」「ロマネスク」「満願」「富嶽百景」「女生徒」「八十八夜」「駆け込み訴え」「走れメロス」「きりぎりす」「東京八景」の9作収録。確かに禁断の太宰文学への導入としてはよいかもしれないです。
青帯・日本思想
江戸時代の医師杉田玄白が西洋医学・人体解剖を江戸時代の日本にオランダの書物から学んだという話。医学書の古典。当時100円本でした。ただし、古文です。
1万円札でご存知福沢諭吉の鎖国から開国へと世界が広がった日本人へのメッセージ。
武家出身だったがキリスト教に帰依した内村鑑三の前半生の自伝。もともと英文で書かれたものの翻訳。
河上肇が大正時代にワーキングプアの問題についての大阪朝日新聞に連載した評論。この後、マルクス経済学に傾倒し、日本共産党に入党し、弾圧生活を送りました。
柳田民俗学の基礎であるフィールドワークについて、柳田国男自身が談話などで使っていたものをまとめたもの。「青年と学問」「旅行の進歩および退歩」「旅行と歴史」「島の話」「南島研究の現状」「地方学の新方法」「農民文芸とその遺物」「郷土研究ということ」「Ethnologyとは何か」「日本の民俗学」所収。
青帯・東洋思想
インド哲学・仏教学の巨人であり、「仏教語大辞典」の著者中村元がゴータマ・ブッダ(釈尊)の経典のうち「スッタニパータ」を訳したもの。
日本の思想の基礎であり、漢文の基礎。
昭和53年という時代に岩波書店がブッダや論語とともにジュニアに読ませようとしたという意味では、現在となっては驚くべきことだったと思います。
桃帯・外国文学
中国文学から、中華民国の作家魯迅の第一作品集「吶喊」です。この中に「自序」「狂人日記」「孔乙己」「薬」「明日」「小さな出来事」「髪の話」「風波」「故郷」「阿Q正伝」「端午の節季」「白光」「兎と猫」「あひるの悲劇」「宮芝居」の15篇が収録されています。「阿Q」とは人の名前で、魯迅が少年時代に実地に見たルンペン農民がモデルになっているということです。
古代ギリシャの文学から、ジュニアの小学生でも読めるということからのチョイスだと思います。古代ギリシャの奴隷アイソーポスが作者だとされている寓話集で、この本には358篇の寓話が収められています。
古代ギリシャの三大悲劇詩人の一人ソポクレスの悲劇の戯曲。父を殺して母と夫婦になったことによる悲劇であり、オイディプスとは、フロイトのいわゆる「エディプス・コンプレックス」の「エディプス」のことです。
イギリスからは、まずイギリスの思想家トマス・モアの著作。いわゆる「ユートピア」の語源になったものですが、ここに描かれているのは、お伽話のいわゆる理想郷としての「ユートピア」ではなく、法律家モアが生きた16世紀のイギリス社会を批判して別の社会を想定したという内容になっています。
そして、かのシェイクスピアからは商人シャイロックが登場する「ヴェニスの商人」。裁判ものといってよいかと思います。四大悲劇の「ハムレット」「マクベス」「オセロ」「リア王」からでもよかったのではないかとも思います。
イギリスの登山家エドワード・ウィンパーのアルプス山脈マッターホルン初登頂への記録。冒険物として読めます。もちろん実話ですが、結末には悲劇が起きます。
アメリカからは、アメリカ建国の父の一人とされるベンジャミン・フランクリンの自伝。ろうそく製造の家に生まれ、こつこつと努力し、アメリカ建国の父と呼ばれるまでの道すじ。アメリカのロング・ベストセラー。
フランクリン自伝をユーモアたっぷりに批判したマーク・トウェイン晩年のペシミズム作品。ここでも「トム・ソーヤーの冒険」も「ハックルベリー・フィンの冒険」も選ばなかった岩波書店の矜持が感じさせられます。
ドイツからは19世紀の詩人ハイネの詩集。ハインリヒ・ハイネはロマン派の詩人であり、その詩はたくさんのロマン派の作曲家に取り上げられ、たくさんの歌曲が生み出されました。
20世紀前半のドイツ生まれスイスの作家のヘルマン・ヘッセの「車輪の下」。主人公と同世代のジュニアにとってはとてもシビアな内容の本です。
チェコのドイツ語作家フランツ・カフカの「変身」。「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベッドのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。」から始まるが、サイエンス・フィクション(SF)ではなく、暗喩だと思います。「変身」「断食芸人」の2篇収録。
フランスからは、ルイ14世時代のフランスの俳優・劇作家モリエールの戯曲(演劇の台本)「守銭奴」。モリエールはフランス古典喜劇の作者です。お金大好きな主人公の子どもたちの結婚話なのですが、主人公の虎の子の大金が盗まれ、さあたいへん、というお話です。
19世紀のフランスの作家スタンダールによる小説。フランス革命後の王政復古時代のお話で、貧しい出自だが、利発でイケメンの主人公ジュリアンが市長の妻と不倫し、発覚後、貴族の秘書となり、その令嬢と恋仲になるものの破滅していくという内容です。サマセット・モームの「世界の十大小説」の一つに挙げられています。
つづいてスタンダールと同時代、バルザックの「谷間のゆり」。こちらも不倫が題材になっています。かつての岩波文庫では上下巻の分冊でした。
19世紀後半のフランスの作家モーパッサンの作品。主人公のジャーヌが修道院を出て結婚し、子を産み、不倫され、夫との死別、子への溺愛、子の不義理、両親との死別、孫娘を抱くまでの物語。
ジュニアにはいささか内容が刺激的な3冊のあと、ジュール・ルナアルの19世紀末の少年小説「にんじん」。
フランスの小説家ロマン・ロランが20世紀初頭に発表したドイツの作曲家ベートーヴェンの伝記。これをきっかけにベートーヴェンをモデルとした「ジャン・クリストフ」が書かれることになりました。ロマン・ロランは1915年にはノーベル賞も受賞しました。
最初に「力を尽して狭き門より入れ」との聖書ルカ伝の言葉がおかれた20世紀初頭のジイドの小説。これも恋愛小説なんですが、これまでチョイスされたフランスの小説に比べると、難解かなと思います。
次の外国文学はロシア文学です。まず、たくさんの作品がオペラ化されている19世紀前半の詩人プーシキンの小説「大尉の娘」。ロシアの農民の反乱であるプガチョフの乱が題材となっています。
19世紀三大ロシア文豪の一人、ツルゲーネフの代表作。19世紀後半ロシアの旧世代の父と新世代の子が主題です。
三大文豪の一人、ドストエフスキーからは処女作の「貧しき人々」。代表作である長編「罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」ではなく、☆2つの手頃な厚さの本。男女の手紙のやりとり形式になっています。
三大文豪のもう一人、トルストイからはやはり手頃な厚さの「幼年時代」。こちらも大作「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」でもなく、「クロイツェル・ソナタ」でもなく、トルストイの処女作であり、自伝的小説三部作の最初の作品がチョイスされました。主人公は10歳でジュニア向けということだったのでしょう。母の死という重大イベントがあります。
19世紀後半のロシアの劇作家チェーホフの四大戯曲の中から「桜の園」。「桜の園」とは、主人公である没落地主が売りに出している土地のこと。作者本人は喜劇と言っていますが、悲劇だという人もいます。
19世紀末~20世紀前半の作家ゴーリキーの戯曲「どん底」。19世紀末~20世紀最初期のロシア貧困層の中の殺人事件を描いたものです。黒澤明監督の映画「どん底」の原作です。
ご存知、19世紀デンマークの童話作家アンデルセンの「絵のない絵本」。三十三夜までのお話があります。各夜に影絵が挿入されていますが、これは「道部順先生御所蔵の趣ある影絵」だということですが、おそらく原典にあったものではないかと思います。
青帯・西洋思想
古代ギリシャのプラトンから「ソクラテスの弁明・クリトン」。前者は、プラトンの師であるソクラテスが「神を冒涜した罪」で裁判にかけられ、そこでのソクラテスの主張。後者は、その裁判で死刑判決を受けたソクラテスに友人クリトンが逃亡を説得しに来たときのソクラテスの主張。
この60選の中で最大の長編。ジャン・ジャック・ルソーはフランス革命前夜の思想家ですが、教育小説と呼ばれる「エミール」は同時に出された「社会契約論」と両輪だと言われます。自由主義と民主主義が基調となる現代社会において、前提となる社会構成員である市民とは何か、どうあるべきかという見方から読むと良いと思います。
20世紀の二大思想である実存主義とマルクス主義のうち、実存主義の先駆者と言われるデンマークの思想家キェルケゴールの「死に至る病」。聖書ヨハネ伝の「この病は死に至らず」の「死に至る病」とは絶望のことであるという第一編の言葉から始まります。絶望とは何かを分析し、絶望を克服するためにはどうすればよいかを考えています。
スイスの法学者であり哲学者であるカール・ヒルティの「眠られぬ夜のために」。国際法の大家として勤勉な作者による精神安定剤的な書物。
聖書の旧約聖書の最初の部分「創世記」を文庫化したもの。「始めに神が天地を創造された。」で始まる口語体のものです。
ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマンの自伝です。少年の頃、絵本で読んだトロヤをついに発掘するというエキサイティングな物語になっています。
19~20世紀初頭のフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの言葉を日本の詩人高村光太郎が訳したもの。彫刻の挿絵も豊富です。始めのロダンの言葉は、「それは『夢』もしくは『天使の接吻』というのです。」。
イギリスの科学者マイケル・ファラデーが1860年に王立研究所で行った少年少女のためのクリスマス・レクチャー。ロウソクを燃やした時に起こる化学現象をレクチャーしたものです。
白帯
現代社会の基礎である人権宣言をイギリスのマグナ・カルタから西欧・アメリカの憲法はもちろん、ソ連・東欧・アジア(ヴェトナム・インド・中国・台湾・日本)の憲法、世界人権宣言まで。
アメリカ独立革命時に、イギリス出身のアメリカの思想家トマス・ペインが書いたパンフレット「コモン・センス(常識)」。アメリカ独立は常識であるとの内容。表題作のほか「厳粛な思い」「対話」「アメリカの危機」所収。
19世紀イギリスの経済学者・哲学者・思想家のジョン・スチュアート・ミルの勉学の自伝。日本でも旧制高校の教科書としてよく使われたとのこと。3歳からギリシャ語を学び始めたところから始まり、64歳までの自伝です。
カール・マルクスの親友フリードリヒ・エンゲルスのパンフレットで、正式名称は「空想から科学への社会主義の発展」。マルクス主義の古典「共産党宣言」「資本論」「反デューリング論」のうち「反デューリング論」の抜粋です。
アメリカのジャーナリストであるジョン・リードが1917年ロシア革命の現場に行って取材したレポート。レーニンの推薦文付き。
さいごに
以上が岩波書店が当時のジュニアに読んでもらいたかった文庫でした。ジュニアが小学生・中学生・高校生だとすると、なかなか読み応えのあるチョイスだったと思います。
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