コロナ時代の哲学
「コロナ時代」に何が起こっているのか、どこに可能性を見出すか。大澤真幸が國分功一郎をゲストに招いて哲学者として討論した「コロナ時代の哲学」(左右社)。今の世の中の潮流にコロナが加わることで、加速する危険性と可能性を深堀している。
◆「コロナの時代」何が起こっているのか
三つのレベルで思考している。一つは「身体の非接触」の非人間性、二つめは緊急事態宣言が監視社会を加速する危険性、三つめは「移動の自由」と「死者の権利」の喪失(哲学者アガンベンの発言から)である。
【「身体の非接触」の非人間性】
チンパンジーの「鏡像認知」の話が面白い。ほとんどの動物は鏡に映った姿を自分だとは認知できない。チンパンジーは、マークテスト(チンパンジーが眠っている間に顔に染料を塗り、鏡を前にしたとき手で顔を拭うかどうかのテスト)によって、鏡像を自分であると認知している、とわかるのだが、生まれてすぐに隔離した個体は鏡像認知できない、さらには透明な檻にいれ、他の個体は見えるが接触をさせないで育てた個体も鏡像認知できない、という実験だ(人間はもちろん、今は動物実験でも難しいと思われる。)。私たちは、初めは母親と、そしてけんかや遊びを通して多く人と直接触れ合って育ち、他者との関係性と一緒に自己を確立していく。人との直接の接触は人間性や社会性の基盤となるのに、それを禁じるのであれば「人間的な自然に反するディストピアだと言わざるを得ない。」
【緊急事態宣言が監視を常態化する危険性】
我々は、権力の一部を国に移譲しており、国は本来その範囲で権力を行使するべきだが、緊急事態宣言はその範囲を逸脱しているばかりではなく、三権分立(行政、司法、立法)を形骸化させ、個人情報の独占による監視社会が常態となる危険、また、それを人々が自分の意志ではないのに受け入れる「幸福な監視社会」となる危険を指摘する。
中国の個人監視システム「社会信用システム」は周知のとおりだが、多くの先進国ではインターネット履歴等を通じて個人情報が受け渡され、独占することで「人々の本当に欲しいもの」を先回りした消費者誘導がすでに行われている、と提示。我々が受け渡している個人情報は、移譲した範囲をはるかに逸脱して活用されていること(第1の疎外)、そして国家や企業によって「これが、あなた(の欲望)なのですよ」と提示され、それ以外の選択肢が望めなくなる、という状況(第2の疎外)は、全体主義国家の構造に酷似しており、個人を二重に疎外すると指摘する。(*)
*日本経済新聞(2020年9月23日)で紹介され話題になっている「アマゾンの反トラスト・パラドックス/リナ・カーン」はまさにこの状況を具体的に提示している。アマゾンに受け渡した個人情報が剰余価値を生む仕組みだ。消費者がアマゾンで電子書籍を購入すると、データ(個人情報)をAIで解析し「あなたの欲しい書籍」を「お勧め」する。アマゾンは膨大な個人情報をもとに需要の入口部分を握り、市場を独占し、安売りのコストを出版社に転嫁し、売れ筋ばかりの販売を出版社に求める。出版社統合や書店駆逐がおこり、結果として消費者の商品の選択肢を狭めてしまう。商品が独占により高くなることを抑止する独占禁止法は、個人から受け渡された情報活用によって市場を独占する企業を規制できない。
【「移動の自由」と「死者の権利」】
「移動の自由」とは何かを説明するのに、自らの思想信条を守るために移動する自由(亡命)、刑罰の基本である刑務所による移動の不自由(監禁)、東ドイツ出身のメルケル首相が、移動の自由がどれほど大切かよくわかっている、といって移動を制限する苦悩を表現した事などを上げ、「移動の自由」は他の「自由」を支える根本的な自由であり、それを制限することで失われるのは、自由全体にかかわると指摘する。
コロナに感染した「死者の権利」がないがしろにされている。汚染物質としてシートにくるまれ密閉される様子に私たちは戦慄する。それは安全のため仕方がないと、感じる人が多いのだろうか。生存だけに価値を見出し、死に価値をみいださない社会は、私たちに「死のない人生」を強要する。
死にゆく人の「よりよく死にたい」という想いが奪われ、死に方や死に場所を選べない、死にゆく人と家族や友人が最期の時間、すなわち死に属する「死にゆく時間」を共有できず、「死のない人生」となる。遺ったものが死者を思い出す「よすが」を喪失する・・・。我々は「死のない人生」を容認していくのだろうか。
◆どこに可能性を見出すのか
大澤は、コロナ禍で世界が運命共同体を意識する可能性を地球温暖化と比較して考えている。地球温暖化は、このまま行けば地球規模の危機が99%の確率でやってくるのに、それを回避するためのCO2削減策に向かって、なぜ世界は一つにならないのか? それは人々が遠い将来のことと感じており、経済活動を制限する長く地道な辛い努力を国民に説く政治家より、危機が到来しない1%の可能性を誇張し、トランプ政権がパリ協定を離脱したように、利己的な利益を優先する政治家を人々は支持するからだ、と指摘する。しかしコロナは違う。地球上のどこか―南米やインドで増殖しつづけるコロナウイルスを、世界が連携して封じ込めなければ、この世界は回復できないと誰もが感じるようになってきた。遠い将来の99%の危機ではなく、手が届く将来の100%の危機が見えている。だからそこに世界が運命共同体を意識する可能性があると説く。
◆強化される監視社会に対抗する力
大澤は、コロナ禍で監視社会が強化されると考えている。監視またはインターネット検索履歴を通じて集めた個人情報は、私たちが受け渡したと認識する範囲をはるかに超えて活用されることで私たちを疎外し、AI分析により本人に先回りして「本人の欲望」をつくりだすことでまた疎外する。本人と権力者とのズレ、2重の疎外が民主主義体制の中で大きくなる時、2つの真逆の力が働くという。一つは全体主義的指導者を志向する力、もう一つはその志向を抑止する力であり、常に権力の場所を更新しようとする力である。そのような力をベンヤミンの言葉を借りれば「神的暴力」というそうだ。大澤は、監視社会を市民が監視するシステムが合法化され、擁護され、支援されることで具現化するモニタリング民主主義が「神的暴力」になり得ると提示し、ポストコロナの世界がディストピアへと転じるのを防ぐだろう、と記述している。先にご紹介したリナ・カーンの論文は、まさに権力の場所を更新する「神的暴力」の一つといえるだろう。