柴洋

お粥の店のいい話

京都建仁寺のそばに、sibayoというお粥の店が在る。この店がバカウケだという。70代後半のおばあちゃん一人で営んでいる。お店にはいると、サービスが行き届かないのが、すぐにわかる。自然と手伝いたくなる店。お客さんとの共同関係が立ち上がらざるをえない。ここでは、消費者を演じさせられたりはしない。お客さんがいないと店がまわらないからだ。

朝8時に開店し、14時に閉店。おばあちゃんの昼寝の時間だから。水木が定休だが、おばあちゃんの健康の都合上で休みは不定期になる。お客さんは「何で開いていないんだ?」ではなく「開いててよかった!」のほうに転んでくれる。バイチャンスな感覚。

おばあちゃんは将棋がすきなので、テーブルに将棋盤がおいてある。小学生が店に寄っておばあちゃんと将棋をやる。「将棋がうてるお粥の店」になる。そのうち小学生の子どもたちが、おばあちゃんに声をかけてくれるようになった。お店が小学生たちに目を届かせるのではなく、ここでは小学生がおばあちゃんを気にしてくれる。

一番小さな関係の中に、生きていく上で大切なことが詰まっている。おばあちゃんの言語をこえたコミュニケーション能力の世界に、お店とお客さんと小学生がすっぽりと入っている。できないときに休むことが、自然に受け入れられる。

この店は京都市芸大の社会彫刻の先生、小山田徹さんの奥さんのお母さんがやっている店だ。去年から同居し介護する生活が始まった。その時真剣に考えたことは、おばあちゃん一人で無理なくまわっていくお店にすること。お粥は、特別な保温鍋に玄米と水をいれて、少し煮て一晩おくと朝には出来上がっている。ご飯の7倍になるから原価は安い。副菜は、おばあちゃんが育てた無農薬野菜でつくった漬け物など、身の回りにあるものを組み合わせている。これは、ブリコラージュという考え方。いままで400食ぐらい。お金はトントンでいい。

このような店だから、もうけるための店ではない。ご老人がご自分のペースでゆっくりと生きていく(あるいは死にゆく)時間が、お店の空間にだぶっている。お客さんがここで味わうのは、お粥と、それから、おばあちゃんがもつ固有の時間、自分がもつ固有の時間、修道僧の半畳の寝床に接したときに感じるような、生きていく上で最小でもっとも必要なのは何だろう?というような感覚だろう。

京都の清水寺に寄ることがあったら、建仁寺のほうに坂をくだってsibayoに寄って、「開いていた、ラッキー!」、といってみたい。




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