対話可能_

対話が成立しないワケは、いくらでもいえる。 でも「対話に何が必要か」と考えたことがあるだろうか?

「普通の人」って何?―私たちは、みんな違っているのに、誰かが引いた「普通」と「普通ではない」という境界線に違和感がありませんか?―生き抜くための表現を身につけ、多様な人々の間にある境界をアートの力で動かそうとするNPO がある。NPO法人多様性と境界に関する対話と表現の研究所とアーツカウンシル東京が主催するFORUM「対話は可能か?」全プログラムに参加した。

■前夜祭:「幻聴妄想かるた」大会  2015年9月4日(金)

幻聴妄想かるたをしているうちに、自殺してしまった友だちの重たい棺をかついだとき、中から「気にするな」と、とても明るくのんびりした彼の声が聞こえたことを、ふと、思い出した。そして、聞こえたことが私の真実であることを改めて思った・・・。

都営三田線の改札から上ると、NEC本社を初めとする超高層ビルの町にでる。そこを北西に曲がると、なじみのある低層の住宅地にはいる。芝の家は、その一角で縁側が中からの柔らかい光で照らされている木造の建物である。50年近い年限を感じる4間半×4間半ぐらいの四角い板間は「待っていたよ」といってくれているようだ。すでに画面では、「幻聴妄想かるた」が映し出され、幻聴とおつきあいする導入部がはじまっている。
7時半ピッタリにNPO法人代表で、明るくて律儀な長津結一郎さんが口火をきる。「幻聴妄想かるた」大会は、この3日間のフォーラムの前夜祭であること、芝の家の運営主体(港区と慶応大学)、ご自身のNPO、そしてこのイベントゲストであり、進行役の精神障害者就労継続支援B型事業所「ハーモニー」の新澤(シンザワ)克憲さん、益山(マスヤマ)弘太郎さん、富樫(トガシ)悠紀子さんを紹介する。
一般参加者と主催者、スタッフ、ハーモニーの方合わせて40人ちかい密度感と「お互いの幻聴や病気を聞いてもらう水曜ミーティングは、始まるまえの設えが大事」と語る新澤さんの、緻密なステップアップコーディネートによって、「かるた」にむけて、きわめてスイッチが入り安い状況になっていく。
まず新澤さんは、「まじめ」に幻聴とはなにかをパワーポイントで説明しだす。「6%の人は健康であっても聞いたことがある。」と健康な人もその世界に連続していることを、それとなく説明する。次ぎにお一人に立っていただき、幻聴のプロ、統合失調症である益山弘太郎さんが、後ろから耳元で、実際にあった友だちの幻聴を、会話をさえぎるぐらいの大きな声でささやく、というすごいステージ。その人の感想・・「フリーズしてドキドキした。学校にいくな、といわれたのが嫌だった」。お世話になっている大学教授の声で「大学にくるな」といわれたり、親友の声が「僕は友だちじゃない」など、自分が普段認識している世界に強く反対する声がある一方、宇宙人の女の子を助けたとき彼女がいった『世界で一番きれいな空気を吸わせてあげる。』というロマンチックなものまで、一人の人間の幻聴の多様性に驚く。そして、無意識の世界はどこか別の世界につながっているのではという不思議な気持ちになった。そういえば新澤さんの初めの説明に、沖縄のユタが挟まれていた。彼らは、別の世界の通訳者かもしれない。
そして幻聴カルタそのものをハーモニーの3人が連携しながら説明。たとえば「のうの中に機械がうめこまれしっちゃかめっちゃかだ」は、発信機が「のう」に埋め込まれて、自分の思ったことをどんどん発信してしまう、それをラジオ局が受信して全国放送してしまう。「おとうとを犬にしてしまった。」は、ほんとうに犬だとおもって、おとうとを左側につれて散歩していた。
次は、益山さんが自己紹介するステージ。統合失調症とは何か、一つ一つははっきりしているが、みんな均等な重みで存在していて、優先順位や序列がない(バラバラともいえるが)、を体で示してくれる。
「私は常に盗聴・監視されているから、それを逆手にとって大好きな静岡県を天井に向って宣伝しているのです。」という言葉を聞いたとき、「病気を受け入れる」というような生やさしいものではなく、挑み、天井にむかっても戦うことで「病気を自分のものにしていこう」とする大変な努力を思った。益山さんは、その努力ができる人であり、ごく普通の人でありながら、病気とも対話できる人だと思った。益山ステージのさいごに、ご自身の詩集の朗読。彼の広い世界がしめされた。
ここから、幻聴妄想カルタ大会。5人6組に、それぞれに案内役が加わる。ならべられた20枚ほどの絵札。どんな幻聴なのかを考えているほうがおもしろい。私がほしいとおもったカードは、「振り返ったら自分がタマゴを生んでいた。」「テレパシーで宇宙人の女の子を助けた。」という妄想系で2つともゲットした。参加者それぞれがどんなカードをとったのか、参加者の今がきっと映し出される。グループごとにペースも雰囲気もまったくちがうのはこのためだろう。
自分の幻聴妄想かるたをつくってプレゼンする最終ステージ。怒涛の2時間はあっという間だった。わたしたちのグループが推薦した幻聴妄想かるたは「たましいランキング6位」。おじいちゃんがなくなったとき、聞こえた幻聴だそうで「おじいちゃんは、人生はたましいランキングをあげていって6位になったんだ」と解釈している。わたしが気にいったカードは、道のまんなかに落ちているSさん自身の赤いツバ広の帽子。自宅から直ぐの道端に忘れたものらしいが、「そこに置いておきました。」という感じで、なにげなくかぶった様子を今でも友だちにいわれる、そうだ。
人の幻聴妄想を聞いているうちに、自殺してしまった友だちの重たい棺をかついだとき、中から「気にするな」ととても明るくのんびりした彼の声が聞こえたことを、ふと、思い出した。そして聞こえたことが私の真実であることを改めて思った。先ほど話してくれた益山さんの盗聴・監視、幻聴が、益山さんにとっては「真実である」と、急に実感された。

病気を受け入れることと、自分を受け入れていくことは全く同じである、と感じる。
そこには、痛みを共有できる仲間がいて、安心して自分が自分で変だと思っているところをだすことができ、誰かがそれを絵にしてくれることで、(芝の家では自分でつくった「かるた」でカミングアウトし、「へー」といってくれる人がいて)、それを鏡として、病気や自分をみることができ、受け入れることができる。わたしは、自分の姿を映す鏡として、幻聴妄想かるたを体感した。
益山さんが、病気を客観視してそれと付き合っている話は、ハーモニーのみなさんがもつ、鏡を用意する力を証明しているように思えた。

 2次会に移動するとき、新澤さん、益山さんと歩きながら話すことができた。「一つ一つの受け答えは、拍子抜けするほど確かだった」「病気と闘って従えることに、すごくエネルギーをつかっていて、なにげなく生きているぼくの3倍はつかっているとおもった」とお話しした。2次会の終盤、益山さんから、ぼくに詩集を買ってほしいというオッファー。詩集はすでに完売している。富樫さんがバックから個人のものをとりだしてくれ、益山さんがそれにサインをくれた。

■トークセッション「ともに生きるということ」2015年9月5日(土)                       会場:SHIBAURA HOUSE
ともに生きるとは、『抱えている苦しみや痛みを言葉によらないでシェアしていくこと』

NPOが、共感してきた6人を2人づつ組み合わせて3組とする極めて野心的なトークセッションだった。この日のフォーラムを通じ、次の言葉たちが今の私の手の中に残った。
◎伊豆大島の長嶋元子さんのお話「元子(ガンコ)おばちゃん家」と、高橋信行さんの「旅地蔵-阿賀を行く-」のお話の中で、『そこにいることが大切である』とお二人とも異句同音で語った。おばちゃんにハグしてもらうためだけに来るお母さんがいるという。高橋がお地蔵さんのストーリーを語ることで、お地蔵さんに苦しい話を聞いてもらう場が立つという。(※)足尾銅山―古河鉱業の鉱毒で田中正造らが国に告発した公害運動の原点―の石でできたお地蔵さん。このお地蔵さんは、行き場を失っていた。高橋は、リアカーにお地蔵さんをのせて、阿賀野川を新潟水俣病が発生させた(昭和電工メチル水銀の)草倉銅山まで遡るプロジェクトを行った。
お話をきいていて、『ともに生きるとは、抱えている苦しみや痛みを言葉によらないでシェアしていくこと』という言葉が、私の中で出てきた。

◎宅老所井戸端元気管理者の加藤正裕さんの『安心して不安を出せる場所をつくる』という言葉は、「人に合わせるのがシンドかった。ダメ人間、どうにもならない自分が居る場をつくった。」から生まれた。自分発でつくった場を他者にプレゼントすることが、最も確かでリアリティがあると思えてくる。
◎NPO法人aktaの荒川順子さんの『自分のグラデーションから理解する』という言葉は、エイズやジェンダーを理解するのに最も適切な言葉だと感じた。
HIV/エイズが陽性になった時、自分のまわりにどのように伝えていくか、がとても大切であること、そしてその後の人生について支援をしたいと考えていることを多チャンネルで情報発信する。なによりも自分の中のグラデーションを研ぎ澄ませ、相手を理解していく、というメッセージは強烈だった。
◎アートプロデューサー吉川由美さんの『その人の物語を表現すること』という言葉は、東北大災害で被災し、すべてを失った人に対して「自分が生きていることを誰かがちゃんと見ておいてくれる」ことが大切なのではと感じたことから生まれた。その人の被災と人生を聞きながら『生きていることに心から尊敬する気持をもつ』ようになり、ストーリーを大きめの半紙で切絵にし、壁や玄関先、軒先に掲示する。その人の人生に直接沿うアートの力を感じる。
◎坂倉杏介さん:芝の家など『個人とコミュニティーが成長するような場の働きをつくる』という言葉は、場の働きをつくるNPO代表の長津結一郎さんの言葉「これからの社会を生き抜くための表現を身につけたい」や、吉川由美さんの言葉「その人の物語を表現する」にとても呼応する。NPOが芝の家を活動の拠点としていて、ともに成長していく関係であると、うなづける。

なぜ、「ことばによらないで」シェアしていくこと、と感じたのだろうか? 上滑りの言葉もある。他人のことばの繰り返しの場合もある。ともに生きるというとき、感受性のグラデーションのどこかに触れ、身体を動かしながら心のなかでシェアしていき、結果として、ことばがでてくる、ということかもしれない。

■ライブ「Living Together×東京迂回路研究」 2015年9月5日(土)              会場:SHIBAURA HOUSE5階バードルーム

午後の長いトークセッションの後、アートとアーティストの境界を超えていく力をこの場で掛け合わせてみると何が起こるのか、きっと長津さんたちの、そんなヒラメキから出発したライブなのではと思う。

静かに拍手もなく、文字通り音もなく、陽子さんの手話でライブが始まる。表情と動作で何かをこちらに伝えようとしている。隣の人にもきいてみたが、インパクトのあるパフォーマンスだった。つぎにアーティスト齋藤陽道さんにもどって、ろう学校では、超優秀だったと思われる発語で、同じ手話をしながら話しをしてくれた。対話のために身につけた陽道さんの高い技術と努力、「それでは、我々が身につけるべき技術は?それに向っての努力は?」そんな問いとメッセージが伝わってくる。
司会進行は長津さんとマダム・ボンジュール・ジャンジさん。
荒木順子さんのときはショートカットの白色の髪の毛だが、変身したジャンジさんは、カーニバルの主役のように、目の大きさは3倍になっていて、黄色と赤の和装で水色の髪を渦巻きのように上空にむかって伸ばしている。会場全体が飲み込まれてしまい、これからどのようなカミングアウトがあっても、ジャンジの世界ではOK、というようなパフォーマンスだ。
HIV陽性者がゲイのパートナーへの感染を心配した手記をNPO法人ぷれいす東京の佐藤郁夫さんが朗読した。そして後から手記を書いた当事者であったことが明かされる。様々なリスクを抱え込むことになってもカミングアウトすると決心し、支援するNPOをつくったのは、ある若者が治療をせずに死を選んだことからだった。家族からひどいことを言われ、生きる意欲を喪失したニュースに、救えたかもしれないとの思いが募った。
カミングアウトされたとき、受け入れるか、拒否するか、どちらかのベクトルしかない。ここで書かなければならないのは、マイクの前の佐藤さんがカミングアウトした途端に、距離をとろうとした自分がいたことだ。このことは忘れないと思う。

GONESSさんは、高校時代からラッパーとして活躍、昨日21歳を迎えた。HIV陽性者の手記を朗読し、彼の身体を通して即座にラップにする。GONESSさんは、自閉症といわれ、発達障害とも言われたそうだ。自閉症とともに生きる自分の世界をラップにした「人間失格」をテーマソングといった。重たい荷物をしょっているからこそ、別の世界の重たい荷物をしょった人たちにシンパシーを感じ境界を超える道筋をみつけてくれるのではないか、そんな気持ちにさせる。つまってしまったままの身体を引きずって帰途についた。

■出張ふわカフェin東京迂回路研究 2015年9月6日(日)会場:芝の家 

この日、芝の家まで出張してきたICUジェンダー研究センターのふわカフェに参加した。ふわカフェのグランドルールで、安心しておしゃべりできるように守られていて、まずワクワクし、終わってみると2つの新しい感覚が残っていた。
私自身の男という枠組みをとったら、バラバラになるだろうか。それとも別の見え方がするのだろうか、という少し怖い感覚。もう一つは、ジェンダー感覚は、人によって少しづつズレながら、みんなつながっている、という見晴らしのいい感覚だった。ここで話されたことは、すべて真ん中の机の上に積んで、芝の家を後にした。

■シンポジウム「対話は可能か?」    2015年9月6日(日)                                                             会場:慶應義塾大学三田キャンパスG-SEC LAB.

体感!筆談は魔法のワザ

シンポジウムは、耳が聞こえないアーティスト齊藤陽道(写真家)さんと主催側代表の長津結一郎さんの筆談から始まった。齊藤さんは、昨日新しく登場させたキャラクター陽子を今日も実験している。
まず、静かである。しゃべること、この瞬間に思ったことを書くこと、読むこと、が同時進行する、全方位的な感覚だ。大勢の前で筆談しているのに、2人のプライベートな会話を覗いているよう。読んで理解する時間が挟まり、消化しながら筆談がすすむ。そして、遠まわしな物言いは、「どんなこと?、わからない!」とすかさず齊藤さんから突っ込みがはいり、直截で平易になっていく。本筋と雑談は、はっきりと分かれる。(元々脱線しにくい。)そして一気に深くまで、はいっていく。
陽子になっている齊藤陽道さんと、2次会で筆談する機会に恵まれた。
私:陽道さんの写真は、音がきこえてくるようですね・・。
陽子:どんな音?
私:・・・・耳に聞こえない音・・・空からくる音・・・
その後いくつものステキな展開があって(割愛します)・・
私:私も男という枠組みをはずしたら新しい世界がみえる?
(バラバラになってしまうかも、と思いながら・・)
陽子:NO!新しい世界ではなく、なつかしい自分に再会する。
私:その言葉いただきます。
陽子:誰の中にも、男も女もいる。
この筆談で、午前と午後がつながったのでした。


■パネルディスカション「対話は可能か?」                高橋格×上田假奈代×細川鉄平×長津結一郎

行き交った様々なことばの中で二つのことばが気になった。
一つは、美術家高嶺格さんがいわれた「時間を共有することが、いかに幻想かを知る。」この言葉の後に、高嶺さんは、「自分は拷問されるかもしれない、という脅迫観念があり、拷問に予防線を張るために「明日の拷問」展をプロデュースしている」と話をされた。エグイ拷問だけでなく、IT時代、「明日の拷問」はもっと進化?するに違いない。実際に数点選んで高嶺さん自らが試すつもりだ、という。「いかに幻想か」を知っているからこそ、それを逆転しようとする別の幻想を起こそうとしているのですね、と応対したのは、上田假奈代さんだ。
もう一つは、上田假奈代さんからの問いかけだ。「活動するときにそれを妨げる最大要因はなんですか?」ココルームを訪ねてきたシリアの劇作家に問われたそうだ。答えがでなかったが、私は「自分の身体を通しきれないとき」「通したら壊れてしまうと感じるとき」だと思った。
そして、通所介護事業所「凡」の細川鉄平さん。通ってくるご老人たちと、生活と家族とを共有しながら介護していく家族経営の事業所の、他人とはいえないような距離感のすさまじさ。ゲストの3人は、自分の身体にとって厄介なものも含めて、よく壊れないと思うほど、いろんなものを通していると感じた。

■対話が可能か?-そのために私に必要な3つのこと。
◎まず、多様なものが通せる偏見のない身体。この3日間のコラボレーションで出たエネルギーは、主催者側の想定をはるかに超えたものだったろう。どれだけそのエネルギーを自分の身体にスムーズに通すことができただろうか?偏見があれば、通すことができず、わからないことへの恐怖が心を開くことをじゃまする。無関心の領域に知らず知らずのうちに投げ込んでいれば、全く身体を通らない。
◎次に私に必要なのは、聞こうとするだけでなく、私の中の違和感とつながろうとするモチベーション。齊藤陽道さんが、陽子を登場させ、まず、手話だけで気持ちを伝えようとした場面で感じたことだ。陽子さんは普通に、普段どおりふるまっているのに、こちらには全くわからない。対話というのは、「聞こうとする態度だけではダメなんだ」という感覚が、こちらに起こってくる。私は、長い時間をかけて少しづつたまってしまった「自分がもっている偏見への違和感」とつながり、鏡に映すことで破っていくモチベーションを大切にしている。
◎そして心を開く技術。他者へ届ける(プレゼントする)技術と言い換えてもいい。
リー・ミンウェイの「広がる花園」をヒントとして考えてみた。茎が40cmもある色とりどりのガーベラの花畑が美術館に現れる。それを手にとって、来た道と違う道をとおって、誰か知らない人にあげてください、という。この通りにすると、苦しいほど心が開きっぱなしになった。これは、「他者に届けようとする気持ちからである」と気がついた。                ◎美しいガーベラは、アートであり、アーティストのパフォーマンスである。昨日のライブでGOMESSが後ろ向きで朗読し、「人間失格」をラップし、「ここに2時間いて、はいる前とでた後では、感性が違っているだろう。」という言葉でこの場を掬い取る。陽道さんが登場させた陽子さんが手話し、陽道さんが解説つきの手話をする連続ワザ。荒川順子さんからマダム・ボンジュール・ジャンジへ、目に焼きつく変身。今日のシンポジウムで、壇上の細川鉄平さんが会場に知人を見つけたとき(共同経営者の奥さんが心配して?送り込んだ友達)のふるまい。そこから生まれる心に引っかかって消えない感覚を、他者にプレゼントしようとする、届けようとするときに心を閉じることができない。「どのようにして届けるのか」という自問自答がそうさせるのだ。
                        

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