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【大学サークル合同座談会】Liminal Spaceから考える”懐かしさ”と”不気味さ”について

 にわかに盛り上がりを見せたLiminal Spaceという概念があります。不思議な懐かしさと不気味さが共存するこの概念をもとに、今回は早稲田大学レトロ研究会の牧野さん、立命館大学オカルト研究会の松尾さんと座談会を行いました(以下、敬称略)。

ペシミ(大阪大学感傷マゾ研究会)@kansyomazo
牧野(早稲田大学レトロ研究会)@WASEDA_RETRO
松尾(立命館大学オカルト研究会)@rits_okaken


1.自己紹介

ペシミ:改めまして、本日はよろしくお願いします。今回は「Liminal Space」を始点とした大学サークル合同座談会ということで、まずは自己紹介を頂いてもよろしいでしょうか。

牧野:早稲田大学文学部の牧野です。早稲田大学レトロ研究会は私が一年生の時に立ち上げたサークルで、現在は幹事長を退いているんですが、三年生が就活で忙しいので色々手伝っています。学部は文学部なんですが、研究としては手紙や写真などの「個人が所蔵しているアイテムのアーカイブ化」を扱っています。

松尾:立命館大学文学部の松尾です。立命館大学オカルト研究会はオカルトと言いつつかなり幅広いテーマを扱っているので、自分はめちゃくちゃオカルトに詳しいわけではないんですが、地理学を専攻していることもあって「場所」にまつわる話が好きですね。Liminal Spaceも場所に関連する話なので、とても楽しみです。よろしくお願いします。

ペシミ:大阪大学感傷マゾ研究会のペシミです。昨年の四月にこのサークルを立ち上げました。ウチのサークルは主に感傷・青春・エモといったことについて考えたり、会誌を製作して即売会や学祭で頒布したりしています。正直、最近はただの出版サークルになりつつあるので、色々頑張らないとなぁと思うばかりです。本日はよろしくお願いします。

2.サークル紹介

ペシミ:自己紹介に続き、各々のサークルをもう少し詳しく紹介して頂きたいのですが、その前にこの座談会を企画した経緯をお話させてください。最初のきっかけはオカ研さんがLiminal Spaceについてツイートで言及されていたのを見て、「感傷マゾ研究会とオカルト研究会で対談できたらすごく面白そうだな」と思ったんですね。

 それはかなり前の出来事だったんですが、今年の春にたまたまタイムラインにレトロ研さんのツイートが流れてきて、「早稲田にこんなエモいサークルがあるのか!」と驚いたんです。Liminal Spaceはオカルトと懐かしさが交錯する場所にあると感じているので、この三サークルで座談会ができたら絶対に意義深いと思い、ご連絡させて頂きました。
 そもそも感傷マゾとは何か、というのをこのタイミングで説明させて欲しいんですが、感傷マゾは「存在しなかった青春への祈り」と要約される概念で、2014年に生まれたんですね。青春系の漫画やアニメを過剰に摂取した結果、頭の中で理想の青春像が強固に出来上がってしまい、それと現実の自分を対比して自己嫌悪に陥ってしまう。しかし、やがてその自己嫌悪自体が目的化し、マゾヒスティックな快楽を生むようになる性癖が「感傷マゾ」です。感傷マゾのすごいところは、青春だけでなく様々な要素を包含して語れるところにあるんですが、この概念をもとに青春とか感傷について考えよう、というのが当サークルの趣旨ですね。レトロ研さんは、普段どのような活動をされてるんですか?

牧野:私は昔から昭和アイドルが好きで、早稲田でそういうサークルがあるかなと探したところ、さだまさし研究会しかなくて(笑)。アイドル全体を扱うサークルがなかったので、自分で作った感じです。ただ、その当時は周りで昭和アイドルが好きな人をあまり知らなかったこともあって、アイドル単体だと人が来ないかなと思ったので、インスタで流行っていた昭和の純喫茶などを巻き込んで「レトロ研究会」としました。その中で昭和アイドルが好きな人も来て欲しいなと期待していたのですが、コロナで活動できなくなったこともあって同人活動とかは出来ませんでした。けれどTwitterの更新をし続けていたら今はサークルメンバーが90名ほどになっています。

ペシミ:90名もいらっしゃるんですか?!

牧野:レトロブームが来ていることもあって、ここ最近で急に増えました。

ペシミ:四年前はレトロブームが来ている感覚ってそんなになかったですよね。平成がおわってから加速した印象があるので。

牧野:「写ルンです」が流行ったりはしてましたけど、アイドルが好きな人は少なかったですね。でもここ数年でグッと伸びてます。

ペシミ:レトロ研さんはインカレなんですか?

牧野:インカレですが、ほとんど早稲田生です。80年代くらいにアイドル研究会をやっていた方と交流する機会があって、今は早稲田祭にアイドルを呼ぶ企画を考えています。それぞれの時代から見たアイドルの差がすごく面白いんですよね。

ペシミ:今までのお話だと、牧野さんは元々昭和アイドルが好きでサークルを作ったけれど、それだけだと人が集まらないから純喫茶なども盛り込んだんですよね。現状のサークルメンバーで、昭和アイドルが好きで入ってこられた方ってどれくらいの割合だったんですか?

牧野:今はほとんどがアイドル好きですね。もちろん、アイドル好きかつ純喫茶や廃墟が好きな会員もいます。アイドルにはほぼ興味がなく喫茶や廃墟だけが好きな子はちょっと肩身が狭いかもしれません(笑)。

ペシミ:えっ、そうなんですか。それはちょっと意外でした。てっきり、レトロ喫茶が好きな人が多そうなイメージだったので。


ペシミ:では、続いて松尾さんにオカルト研究会について詳しくお訊きしたいのですが、設立はいつ頃なんですか?

松尾:オカ研の設立自体は2011年で、オカルト系のサークルだと比較的長く続いている方ですね。私は会長とかではないんですが。オカルトという言葉自体がかなり幅広くて、分かりやすいものだとホラーや心霊も扱いますし、未解決事件や都市伝説、UMA・UFOまで扱います。
 あるいは、神話や民族伝承・伝奇が好きな人もいますね。会員の話を聞いていると、インターネット的なホラー(2ちゃんホラー)やホラー映画・心霊スポットを嗜好している人が多いかもしれません。今は非公認サークルなんですが、かつては公認サークルとして学祭に出展もしていました。
 ただ、コロナの影響もあってノウハウが継承されなかった部分もあり、初期のオカ研と今のオカ研はだいぶ違う雰囲気になっていると思います。主な活動としては、オンラインでオカルトに関する話をする会合を開いたり、人狼などのゲーム企画もやったりしています。週末に予定が合えば、実際に寺社仏閣や伝承の残っている場所を訪れたりもしています。

ペシミ:かつて学祭に出展されていたというお話だったんですが、どのような企画で出展されていたんですか?

松尾:正確な記録が残っていないので難しいですが、知っている限りで言うと会員が何かを作って売るフリーマーケットや、会誌を発行して売ったりしていたらしいです。会誌はいくつか残ってますね。ただ、これらの習慣はもう途絶えてしまっているので、自分の代で復活させたい気持ちはありますね。

牧野:何を作って売ってたのか気になりますね。

ペシミ:ですね。会誌めちゃくちゃ読みたいですもん。

松尾:会員の興味範囲が幅広いので、会誌の内容も色々ですね。

ペシミ:両サークルとも素晴らしい活動ですね……。正直入りたいくらいです。

牧野:今思い出したんですが、人を集めるために純喫茶巡りを盛り込んだ以外に、廃墟探訪も含んでいました。というのも、私の友人に早稲田大学廃墟サークルの方がいまして、樹海とか行ったりする訳の分からないサークルなんですけど、それに触発されましたね。

ペシミ:廃墟サークルなんてあるんですね……。調べてみたら、全国各地にわりかしある。立命館にもあります?

全国の廃墟サークル。しかしほとんどが活動も廃墟になっている。

松尾:廃墟サークルだとオカルト研究会が一番近いんですけど、うちのサークルの方針として夜の活動はしない決まりなので、廃墟探訪はあまり活発ではないですね。これからは廃墟も積極的に行きたい気持ちはあるんですが、そもそも関西は廃墟が少ないというのもあるので。関東だったらちょっと郊外に行けば結構あるんですが、関西は廃墟や心霊スポットが他と比べると少ない感じがします。

ペシミ:特に京都だと、廃墟ではなく文化財になりますもんね。

松尾:廃墟って高度経済成長期の都市開発の文脈があると思うんですが、関東と比べると関西はやはり弱いですね。一応、オカルト研究会以外にも放浪同好会とか、色んな場所を探検するサークルがあるのでそちらでは廃墟探訪も行っているかもしれないですが、内情は分からないですね

ペシミ:放浪同好会(笑)。本当に変なサークルが各地にありますね(お前が言うな)。

3. Liminal Spaceとは何か

ペシミ:ここから、Liminal Spaceについて説明させて頂きたいんですが、とりあえずこちらのアカウントの投稿を見てもらいたくて。

https://twitter.com/SpaceLiminalBot

 このアカウントは延々とLiminal Spaceっぽい画像をアップし続けているんですが、これらの画像を見るにLiminal Spaceの条件は主に二つあると思います。
 一つ目が「廊下や階段など、交通の途中で通過する場所」であること。もちろんこれに当てはまらない画像もあるんですが、目的地や終着点というよりは移動の途中で通り過ぎる場所が多いです。もう一つが重要なんですが、「無人であること」です。
 一つ目は守っていない投稿もある一方で、二つ目はほとんどの画像が当てはまります。これらの写真を見たネットの反応で、「不気味だ」とか、「怖いけど懐かしくて子供の頃見覚えがある」といったことを書き込む人が結構いるんですね。まずお二人に伺いたいのが、Liminal Spaceの写真を見てどのように思われましたか?

牧野:奥行きがある写真が多いなと感じました。奥に何があるのかとかき立てられる、物語性があるのかなと。大学で疲れて帰るときの廊下みたいな。感覚の奥底から何かが引き出される感じがありますね。

ペシミ:「懐かしい」の部分は共感できますか?

牧野:少し分かりますね。見ていると、光の表現力に頼っている印象があって、例えばこのお花畑の写真は柔らかくて温かい光の表現が懐かしさに結びついてるんですかね。

@SpaceLiminalBotによる8月5日の投稿


ペシミ:たしかに、ガッツリ明るいみたいな写真よりはやや薄暗い写真が多いですよね。このあたりは不気味さとも関わってくると思うんですが、微熱の時に見る夢みたいなイメージで。

松尾:現在のLED照明というよりは、ひと昔前の蛍光灯や電球っぽさはありますね。懐かしいんだけど、実際にこの風景があったかと訊かれるとそうとは言えないし、かといって完全になかったとも言い切れない。このあたりの言語化が非常に難しいですね。

牧野:やはり光の温かさが重要な気がしていて、暗めの写真でも光だけ温かい印象を受けます。

松尾:LEDの白い感じではなく、やや黄色がかった蛍光灯の感じですよね。サイバーチックに寄るとLiminal Spaceではなくなってしまう。

ペシミ:SFにもホラーにもならない絶妙な匙加減で成り立ってそうです。不気味だけどホラー的な不気味さではない。

松尾:ホラーだと、暗闇で先が見えなかったりして、「見えない」ことが大事なファクターになってますけど、Liminal Spaceはとりあえず全部見えてます。あからさまに真っ暗でぼんやりしている写真は少ないですね。

牧野:でも何かが出てきそうな感じはあります。奥から化け物が走ってきそうな。Windows95の時にあった迷路のゲームっぽい。

ペシミ:そのへんの不安がごちゃ混ぜになっているから、諸々が絡まり合って複雑な構造を作っていそうです。僕が思っているLiminal Spaceの不思議な点が二つありまして。
 一つ目が「どうしてただの廊下や階段を目にしただけで不気味/懐かしいと感じるのか?」で、二つ目が「どうして不気味さと懐かしさが共存できるのか?」です。今日はこの二つの切り口からLiminal Spaceを解きほぐしてこうと思います。

4. どうしてただの廊下や階段を見るだけで不気味/懐かしいと感じるのか?

ペシミ:ここで一旦、Liminal Spaceの歴史を軽く紹介したいんですが、おそらく日本語の記事でもっとも分かりやすいものはこちらです。

 『感傷マゾ vol.07』という本に収録されている「架空のノスタルジー座談会」にも参加された、文筆家の木澤佐登志さんいわく、2019年からLiminal Spaceの概念自体はあったらしく、アメリカのネット掲示板である「レディット」にてLiminal Spaceの項目(2ちゃんで言うスレッド)が作られ、2022年になって急に流行りしたらしいんですね(このあたりの流れは、下の座談会でも詳しく解説されています)。

 2021年に流行り始めた理由は、やはりコロナウイルスが大きかったと思います。コロナで最初に緊急事態宣言が出たときに、誰もいない東京の写真をアップする人が結構いたんです。「渋谷だれもいないw」とか添えて。その時、自分でも「なんだか懐かしい感じがするな」と思った矢先、2021の夏にTwitterでLiminal Spaceの話題がかなり言及されていたんです。コロナウイルスによって予期せぬ形でLiminal Spaceの条件が揃い、未知の状況で得られる知らない感情を言語化するためにLiminal Spaceが発掘されたんじゃないかという仮説を立てています。無人の東京なんて明らかな非日常ですが、それが現実に起こったことで意図せずしてLiminal Spaceの文脈に乗っかった。

 そこで、「どうしてただの廊下や気団に不気味/懐かしいと感じるのか?」について考えると、インターネットが重要なキーになると思っていて。上記の座談会でもインターネット的な想像力について言及されていますし、オカ研さんも先程「2ちゃんホラー」について触れていた通り、インターネットコンテンツにおけるホラー・都市伝説は切り離せないはずです。有名なものだと「きさらぎ駅」とかありますけど、そういったコンテンツの下で起こっている現象だと推測しています。あるいはNintendo64などのゲーム方面からも攻められるかなと。お二人は、この疑問についてどのように思われていますか?

松尾:自分が地理的な視点でLiminal Spaceについて気になるのは、「場所性」ですね。地理学の用語として「場所性」を説明すると、「目的地となる場所」あるいは「その街を象徴するような場所」と言えます。例えば京都であれば四条河原町、大阪なら難波といった具合に、その場所を代表するような特徴を持った土地ってありますよね。街の名前を出すだけで共有されたイメージがぱっと思いつく。それに対して、「没場所性」というのがありまして、これは1990年代に地理学が場所の持つイメージに着目し始めた流れで盛んになった用語です。例えば、ある程度開発された田舎に行くと、大体同じ雰囲気の町並みになっていると思いません? 田んぼが広がっている中に巨大なイオンがあって、ちょっと離れたところに再開発された住宅があって……みたいな。

ペシミ:それ、すっごく分かります。大阪とか京都って言われただけである程度イメージが湧きますけど、徳島県って言われただけでは何も想像できないですよね。行ったことがないのもあるけど、郊外に巨大なショッピングモールが広がっていそうな感じがあります。徳島県民の皆さんには申し訳ないですけど。

松尾:そのように、外見も雰囲気まで同じになって場所のアイデンティティが弱まってしまった状態を「没場所性」と呼びます。地理学の文脈では日本だけでなくアメリカの状況も含んでますけど、いわゆる国道沿いのチェーン店やショッピングモールはどこでも同じような見た目ですよね。Liminal Spaceの場所として採用されやすいランキング筆頭としてアメリカのショッピングモールがあると思うんですけど、「没場所性」は考えられるべきなのかなと。

ペシミ:すごく共感します。2021年に公開された『サイダーのように言葉が湧き上がる』という映画は、郊外に建っている大きなショッピングモールで生活が完結している高校生の日常を残酷なくらい正確に描いているんですが、あそこでの生活や風景ってどこの街を代入しても成り立つんですよね。千葉っぽいなとか、福岡っぽいなという考察がまったくできない。ショッピングモールやチェーン店が、Liminal Spaceによく使われるのは、まさに「没場所性」を持っているからだったんですね。

松尾:これを援用すると、地下道や空港の通路なんかも没場所性の観点から語れる気がします。Liminal Spaceにはある意味で平坦さ(最大公約数的な無機質さ)が必要なので、場所性がないことでより多くの人に共感されてるんでしょうね。

ペシミ:そこまで聞くと当然のように感じますけど、言われるまで気付きませんでした。懐かしいと思うには見たことがない場所だったらダメなので、経済システムの中で量産されているコピー建築のようなものがLiminal Spaceになっているんですね。

松尾:平成日本の原風景という捉え方がありまして。そもそも今の日本の原風景は里山ではなく郊外のロードサイド店舗になってるんですね。そういった部分でLiminal Spaceの懐かしさは生まれているんじゃないかなと。

牧野:没場所性って、集合的記憶と近いですよね。私は80年代くらいの懐かしいものが好きですけど、当然その時代に生まれているわけではない。みんなが懐かしいものを好きな理由って、生活感があるからだと思うんです。これを使って生活してたんだとか、これでオシャレしてた女の子がいたんだとか。アイテムから色々なことを想像できるから楽しい。
 例えば、テレビで80年代を振り返る特集をやっていて、当時の原宿が映ったとしますよね。親がそれを見て「懐かしい」と言ったとしても、親はその当時原宿に実際いたわけではない。けれど、聖子ちゃんカットの女の子がいるのを見たりして「懐かしい」と思う。こういうのって集合的記憶なんですよ。
 普通、生活感と懐かしさは切り離せないはずなんですが、Liminal Spaceはかなり無機質なイメージがあるんです。ここで生活している人の姿が想像できない。だからこそ、懐かしさの前に不気味さを感じるんです。物が綺麗に並びすぎている。私は廃墟に行っても、そこで生活していた人のことを想像して懐かしいと感じます。知らない人のお墓参りに近い。でもLiminal Spaceは知らない人の知らない場所なんですね。だから不気味に感じます。

ペシミ:それもすごく面白い指摘ですね。8月に発刊する『青春ヘラver.4「エモいとは何か?」』にて、「写ルンですはエモいけど縄文土器はエモくない」という旨の文章を書きまして。エモいと懐かしいが表裏一体と考えると、「それを使っているところを想像できるか否か」は非常に重要ですね。

牧野:それに関連して思い出したのが、人が廃墟に行くときの目と、寺社仏閣に行くときの目って違うなと。もし歴史が好きな人であれば、「ここで自害したんだな」と思い巡らせることはあるかもしれませんが、お城やお寺で誰かが生活していたのを想像することってあまりなくないですか? 観光客の人はどちらかというと建築様式をメインに見に来ている印象があって。それはやはり歴史を知らない、考えが及ばないからだと思うんですね。

ペシミ:んーでも、オカルトの文脈でもその種の想像はする気がします。怪談との関係を考えたときにオカルトにおいて「物語性」って鍵になると思うんですが、松尾さんが廃墟に行くときってどういう心境で訪れてるんですか?

松尾:僕自身がそれほど頻繁に廃墟へ行くわけではないですが、オカルト的な文脈では代々「空間の境界」に怖さが見出されてきた部分があって、踏み入れた瞬間に異界へ来てしまったかのようなワクワク感が好きなんですね。あるいは廃墟って現役の建物でも更地でもない曖昧な感じがあるので、そういった部分にオカルト的な面白さを感じ取って楽しんでます。なので、心霊スポットと同じようなモチベーションで廃墟を愛好するということはないですね。
 牧野さんが仰っていた「生活感」について思うのが、怪談も同じだなと。例えば心霊スポットになりやすい場所は、廃ホテルやトンネルなどの比較的新しい建造物であることが多いんですね。歴史的な寺社が心霊スポットになっている話はそれほど聞かない。加えて、白いワンピースの幽霊はよく話に出るのに、平安時代の貴族が幽霊になる話はあまり聞かない。『皿屋敷』みたいに伝統的な怪談はもはや伝承の域に達している気がして、現代で言う「怖い話」のテイストにはマッチしない印象です。

牧野:確かに、縄文時代の遺跡に縄文人の幽霊が出てもそんなに怖くないですよね。

ペシミ:物語が歴史になった時に何かが変わってしまうんでしょうね。「オカルト」という言葉は首塚などの歴史的な怪談からは遠い位置にあって、むしろ「本当にあった怖い話」とかのイメージの方が近い。

松尾:京都でオカルト研究会の活動をする難しさがそこにあるんですよ。オカルトと歴史的な怪談が分けづらいという(笑)。

ペシミ:懐かしさについては深掘りできたのでここからは不気味さについて考えたいんですが、これに関してひとつ仮説がありまして。心霊的な「不気味さ」とLiminal Spaceの「不気味さ」は、地続きなんじゃないかと思ってるんです。一見異なる種類のものと思われるけど、実は連続している。
 Liminal Spaceを目にしたときに感じる不気味さって、つまり「本来は人がいるはずの所に人がいない」というギャップから来るものですよね。それがやがて「誰かがいて欲しい」と思うに至る。その結果生まれたのが幽霊という存在であり、それにより心霊的な不気味さが生み出されるのではないかと推測しています。ふつう、人が幽霊を見たときは、「幽霊→怖い・不気味」の回路が一般的ですが、この矢印には実は前提条件があって、その部分だけ取り出したのがLiminal Spaceとして取り沙汰されているんじゃないかと。

松尾:すみません、もう少し詳しくお願いできますか。

ペシミ:順序としてはこんな感じですね。

「普段は人がいるはずの場所に人がいない」→「そのギャップが不気味だ」→「誰かがいて欲しい」→「幽霊を幻視する」→「不気味だ」

 この流れの「普段は人がいるはずの場所に人がいない」→「不気味だ」だけを取り出すと心霊になるんですけど、中間項まで含むとLiminal Spaceになります。「幽霊が不気味である」ことは常識ですけど、なぜ不気味なのかと問われた時に、「実は不気味なのは幽霊ではなくLiminal Spaceであり、不在への不安が可視化されて現れるのが幽霊ではないか」と返すことができるはずなんです。Liminal Spaceはにわかに騒がれた感覚がありましたけど、最初と最後のみを取り出したから新鮮に見えただけであって、中間項が見えにくかっただけで我々は初めからそれを知っていたと思うんですよね。

松尾:逆順に捉えるのは面白い発想ですね。この座談会の前にオカルト研の方で同じ質問を部員にしてみて興味深かったのは、そもそも妖怪は〝外〟から来る存在じゃないですか。

ペシミ:三途の川やムラみたいな日本の風俗に基づいてますよね。

松尾:そうなんです。一方で、現代的な都市伝説や学校の怪談って、〝内〟から出てくるイメージがあって。なので、心霊的な不気味さといっても内と外の二種類の方向性がある。そこでLiminal Spaceがどちらなのか考えると、「人がいるはずのところにいない」という怖さ(=不在の怖さ)はやはり内から発生するものだという意見が出たんですね。ある場所に間隙が出来たから、それを埋めるように発生した内からの「不気味さ」なんだと。

ペシミ:妖怪と都市伝説の内と外の違いはあまり意識したことがなかったですね。言われてみれば当然な気もしますが、見落としてはならない前提だと思います。

牧野:怖いものを見たいという気持ちは、「ギャップが見たい」という気持ちと等しいんですかね? 小学校ではある時期になると怪談やホラーが流行り出しますが、「怖いものを見たい」気持ちがそもそもどのように生まれているのか分かってないです。

ペシミ:少し斜に構えた答えになりますけど、僕の敬愛する小説家・三秋縋が「人々が夏に怪談を好むのは、生が最も盛んな季節である夏に死の話をしてバランスを取るためだ」と言ってました。この答えは感情マゾ的にも満点だなと思っています(笑)。

牧野:すごくレトリックで良いですね(笑)。怖いものや異形と人の付き合いを考えると、古代が人を通して間接的に出会うもの(降霊)だったのが、実際に幽霊の腕を出してみたりするショーじみた形態に変化しましたよね。1800年代後半にその特徴が顕著になって、ケイティ・キングが登場して「私は霊です」と名乗ったりしました。カメラが登場して記録媒体として残るようになって、霊が「怖い」存在から「見たい」存在に変化してきているように思います。

松尾:オカルトも含め、そういったものはだいたい宗教的な絡みがありますよね。80年代から90年代にかけて『ムー』とオウム真理教の関連があったり、時代によってオカルトも様態がかなり変わってきています。

牧野:心霊写真ブームから一段落してLiminal Spaceが流行っているのを踏まえると、我々は心霊写真で霊の存在を知っているからこそLiminal Spaceで探してしまうのかもしれませんね。そもそも心霊的な想像力がなければ何かが出そうとも思わないはず。

松尾:Liminal Spaceって、考えれば考えるほど深みにハマっていく感じがありますね。

5.なぜ不気味さと懐かしさが共存できるのか?


ペシミ:不気味さと懐かしさについては個別に深掘りできたと思うので、ここからはもう一つの疑問である「なぜ不気味さと懐かしさが共存できるのか?」について掘っていきたいと思います。最初に僕の仮説をお話しすると、かつてホラーの対象だったもの─2ちゃんねるのスレッド、レトロなホラゲー等─自体が時の流れで古びてきて、ノスタルジーの対象になってる現状があると思っていて。
 2ちゃんホラーもそうですが、僕にとっては不気味さの根源ってDS・3DSで遊んだゲームのホラーマップがかなり影響としては大きいんですね。例えば、3DS版の『とびだせ!どうぶつの森』で、アイカ村という呪いの村があるんです。村全体が不気味さに満ちていて、アイカという少女の悲惨な生涯をマップ全体で表現している。そういったホラーっぽいゲームの思い出をDSや3DSで遊んでいた時に蓄積しつつ、けれどゲーム機自体が過去のものになってノスタルジーの対象となってしまった。ちなみに後から知ったんですが、アイカ村の作者は糸井重里がどうぶつの森で作った「一見無邪気だけどどことなく不気味な部屋」に影響を受けているらしく、これがまさにLiminal Spaceなんですよ! しかも記事では『MOTHER3』のポーキーとの関連もあるようで、すべてが線で繋がった感覚がありましたね。

牧野:なるほど、昔やっていたゲームのホラー要素が古びることでノスタルジック・ホラーが成立していると。

ペシミ:そうですね。多分、思い出せば無限に出てきます。据え置きのゲームでなくても、『のび太のバイオハザード』とか、『青鬼』とか。お二人にお訊きしたいのが、昔プレイしたゲームで「懐かしくて怖かった思い出のあるゲーム」ってあったりします?

牧野:私は『逆転裁判』ですね。小学校の時に初めてプレイしたんですけど、殺人が起こったりして結構怖いんですよ。探偵パートと法廷パートのモードに分かれていて、特に探偵パートが怖いです。3DSになってからは改良されたんですが、ゲームボーイアドバンスの頃の探偵パートは、一枚絵のイラストの中をボタンで調べる操作が必要で、それがまさにLiminal Space的な「何かが出てきそう」な不気味さでした。

逆転裁判探偵パート

ペシミ:逆転裁判ってそんなゲームなんですね……

牧野:あとはポケモンの『不思議のダンジョン』もですね。私はゲームボーイアドバンス世代なので、また少し違った体験だったのかもしれません。

ペシミ:Liminal Space的な怖さに絞って言うと、僕はDS世代なので『ドラゴンクエストⅨ』の「石のまち」というフィールドは怖かったですね。このフィールドはエラフィタ村という村の地形をそのまま採用しながら、建造物や村人はすべて石になっていて画面全体がモノクロな狂気じみた場所なんです。決して心霊的な不気味さを感じる要素はないんだけど、なぜか胸の奥がざわざわする怖さみたいなものはこれで初めて味わった気がします。

ドラゴンクエストⅨ 石のまち

松尾:自分はそれほどゲームに詳しくないんですが、他の会員がネットに転がってるフリーゲームの話題を出してました。ただ、個人的には不気味さと懐かしさは相関しないような気もするんですね。両者を割り切るのもまた難しいというか。

ペシミ:オカ研の活動でたまにゲームをやったりすると仰ってましたが、ホラーゲームをみんなで遊ぶようなことはないんですか?

松尾:今ちょうど試験的にやってみようという話になってますね。Discordでフリーのホラゲーを共有しながらやってみよう、みたいな。

牧野:Ibとか流行りましたよね。懐かしい……

ペシミ:それでちょうど思い出したんですけど、小学生の頃に暇だったのでネットのフリーゲームをやりまくってた時期がありまして。そこで脱出ゲームに熱を上げてたんですね。今思い返すと、こういう脱出ゲームの風景ってLiminal Spaceっぽいですね。誰もいなくて、誰かいてほしい欲望が「脱出する」目的に変わっていく。

牧野:私もniftyの子供向けゲームをやってましたね。脱出ゲームってほとんどが無音で、カチカチクリックしてるとたまにデカい音が鳴ったりして、怖いんだけど進みたい気持ちはホラゲーにもLiminal Spaceにも共通してる気がします。

ペシミ:Liminal Spaceと似た概念で「バックルーム」があるんですが、あれはSPCみたいにユーザーによって物語が追加されていくんですね。バックルームを扱った映像作品では実際にモンスターみたいな異形が出てきて、出てきちゃうとそれはLiminal Spaceではなくバックルームになってしまう。Liminal Spaceはやはり何もいないことが大事ですね。

牧野:想像できることが重要ですよね。出てくるかもしれないと思える想像力。その間の揺れ動きが不気味さに繋がっているのかな。

ペシミ:心情としては「誰かいて欲しい」なんだけど、本当に出てくるとホラーになってしまう。Liminal Spaceは微妙なバランスで成立してますね。

牧野:冒頭でも言ったんですが、私は他人の日記を集めてまして、古いものだと明治時代から、新しいものだと10年代の女子小学生の日記まで色々集めてます。それを読んでみると、顔文字を手書きで書いてたりして懐かしい気持ちになるし、明治時代でも全然知らない人なのに「お腹空いた」とか書いてあってすごく人間味があるんですね。端から見たら、知らない人の日記や白黒写真を集めるって呪われそうで怖いですけど、私にとってはもはや家族写真を見るようなテンションなんです。

ペシミ:それを集めるときのモチベーションは、懐かしいものが好きなという根本的な欲望があるんですか?

牧野:最初は昭和アイドルが好きで、アイドルの写真を集めて懐かしいのを楽しんでいたんですけど、だんだん人単体に興味があると気付いたんですね。そこから骨董市に赴いて日記や手紙を買うようになりました。たしかに不気味な側面はあるんですけど、そもそもの話で懐かしいものを収集する行為自体が不気味だと思うんです。だから、Liminal Spaceにおいて両者が不思議と共存できていると捉えるよりは、基本的に切り離せないものなんじゃないかなと。顔も名前も知らない人を文字から想像するのって楽しいですよ。

ペシミ:あ、でもそれは感傷マゾ的な方向性と近いかもしれないです。ウチの出してる同人誌『青春ヘラ ver.1』の特装版で、「架空のヒロインからの手紙セット」を同封したんですね。あれを作った時は、手に取ってもらった人全員に各々の「理想のヒロイン」を想像してほしかったんです。

牧野:それすごく面白いですね、以前Twitterで「妹からの手紙ガチャ」を見かけましたけど、作る側も貰う側も楽しくて良いですね。やはり、根本的に人の生活を覗いたり想像するのが好きなんだと思います。

ペシミ:物語を追加するとなるとバックルームに近くて、誰もいない(=不在)とLiminal Space的な感性に近い。初期のTwitterって、現在の使用用途とはだいぶ違って、それぞれが独り言を呟くにすぎなかったじゃないですか。昔のインターネットは、「オンライン上で一人になれる」特殊性があったはずなんです。ネットに接続していても、基本は一人でいられる。その感覚がLiminal Spaceを体験している時の心境と似ているなと思いました。
 でも今は、インターネット上で一人になることがかなり難しい。放言をツイートしても誰かに見られる意識が常にあるし、気ままにブログを書いても閲覧数やいいねを貰ってどこか監視されている気がしてしまう。動画やニュースにも誰かのコメントが付いていて、他人の痕跡が常にある。昔の心地よい孤独感がインターネットにはもはやないんですね。一方で、リアルタイムのオンライン授業をZoomで受けていて、たまにブレイクアウトルームで一人になることがあるんですけど、その時にすごく心地よい感じがあるんですよ。繋がってるんだけど、俺はここに一人で、何をしてもいいんだという謎の安心感があるんですね。かつて体験した懐かしいインターネットの感覚を擬似的に体験できる。昨今のローファイブームやレトロブームも含め、不便なものを人が愛するのは一人になりたい欲望とセットだと考えてます。VRChatの画期的な点は、オンラインにいながら一人でいられる所だと思うんです。
 あるいはLiminal Spaceをワールドにしたゲーム『Anemoiapolis』もそうですけど、昨今はどのゲームもマルチプレイが前提となっているので、Liminal Space的なコンテンツはそこに対抗できるんじゃないかなと思います。

牧野:私はTwitterをかなり初期からやってるんですが、最初は本当に会話が成立してなかった印象ですね。「ただいま」や「お風呂入ってくる」レベルの断片的なコミュニケーションしかなくて、それこそお風呂行ってくる報告の後にレコーディングの絵文字を送って笑いを取ったり。みんな独り言を勝手気ままに言ってました。そういった個人空間が、今では公共空間になってるのはありますよね。

ペシミ:公共空間もとい議論の場って感じですね。今のTwitterはマジで嫌いです。

松尾:オカルト研究会のアカウントが2010年からあるのでツイートを遡ってみると、活動の連絡や新入生とのやりとりをリプライで行ったり活動教室の連絡も普通にツイートしてるので、コミュニケーションがあるとしても想定している範囲の世界がもっと狭かったでしょうね。

牧野:個人のLINEと変わらなかったんでしょうね。

松尾:今見ているのが2013年のツイートで、この頃はたしかLINEが出来たてで誰もやってなかったのでTwitterにもそういう用途があったんでしょうね。後にLINEのシェア率が上がって、オープンなコミュニケーションはTwitter、クローズドなコミュニケーションはLINEに収束しました。FaceBookはなんとも言えませんが、近年の若者はインスタ・TikTokに棲み分けがさらに広がって行ってますね。

牧野:マクルーハンが、新しいメディアが登場すると人は前時代的な使い方をするという指摘していまして。初期は誰も使い方がわからないから、ブログが流行ったら雑誌の掲示板みたいな使い方になるし、LINEが出てもTwitter的な使い方をする。そこを乗り越えて分かってる人が増えると、真の使い方が誕生するんですね。だから、メディアの本当の使用用途は数年経たないと確立しないんです。

ペシミ:発言が老害ぽくなっちゃうんですけど、TikTokってVineと何が違うのかいまいち分からないんですよ。

牧野:Vineも懐かしいですね……。「短い動画をつなぎ合わせて笑いを生む」って、ニコニコでドナルドのMADから散々繰り返されてきたことなので、根本的な部分は同じだと思いますね。

松尾:今のTikTokって、かつてのニコニコ動画の位置に近いと思ってます。インスタとTikTokは現代のSNSを象徴する二大巨頭みたく語られますけど、それぞれを詳しく観察すると、インスタは昔のTwitterの役割に似ていて独り言や断片的なコミュニケーションが多いイメージで、TikTokは踊ってみた・歌ってみたが多くて気軽にコメントできてニコニコの空気感があります。TikTokはジャンルによってかなり内容に差がありますけど、純粋にオタクもTikTokやればいいのにと思いました(笑)。

牧野:ちょっと話がずれますけど、演歌はもともと自由民権運動の時代に「演説歌」の意味で使われていましたよね。時代が下り、第二次世界大戦後に起きた「うたごえ運動」という社会的政治的な運動を発端に、55年ごろには歌声喫茶なんかもブームになりました。大衆の中で声で意志を伝える、団結するという共通認識があったように思えます。また、明治期以前など西洋の影響を受ける前の日本の伝統音楽は、歌声は地声のものが多い印象を受けます。
 今はTikTokなどで、覚えやすい振り付けがつけられる曲が流行っていますね。コロナの影響もあってか、声を出して合わせることよりも身振り手振りを合わせて感覚を共有することに重点が置かれているのでははないかと感じます。 歌でコミュニティを形成するところから、踊りでコミュニティが出来上がる時代になった感じがありますね。 アイドルでいうと、昭和後期は振り付けも身振り手振りのものが多かったのが、平成に集団アイドルが基本になってからは完成度の高いダンスパフォーマンスが求められるようになりました。しかし、やはりSNSでの流行を見込んでキャッチーな振り付けをつける動きが戻っているように思えます。

松尾:ダンスが身近になっている印象はありますよね。それで共同体が出来やすいというのも分かります。

ペシミ:もはや音楽も支配されてますよね。踊りやすい曲が流行る。また話がずれますが、そもそも今の時代の音楽って何かしらのプラットフォームでバズることで商業として成立するじゃないですか。CDが出てから人気になってオリコンに入る流れじゃなく、SNSでバズったからCDが出て人気に火が付きオリコンに入る。だから、音楽がプラットフォーム側に最適化されている感じはありますよね。TikTokウケを狙うと短い曲ばかりになりますし。その意味では、TikTokとニコ動が似ているのはあるかもしれません。

松尾:両者ともインディーズ感が共通してますよね。著作権関係でもニコ動とTikTokのゆるさは同じというか。

牧野:昔はニコ動の弾幕で喜んでましたけど、この間久々に見たら普通に「サムいな」と思っちゃったんですよ。あれはやっぱり若い感性だったからこそ笑えていたのかな。TikTokってコメント流れてくるんですか?

ペシミ:流れてはこないですね。コメント欄が別にあります。

松尾:ただ、質が低いというか。良い意味でも悪い意味でも昔のニコニコっぽいですね(笑)。歴史は繰り返されます。ネットもひとつの「空間=Space」なので、みんな新しい場所で同じ事をしてるだけなんですね。

6.感傷マゾ・レトロ・オカルト

ペシミ:では最後に、感傷マゾ・レトロ・オカルトの共通部分を考えてみたいんですが、これらはそれぞれ「ここではないどこか」への欲望が根底にあると思ってるんですね。感傷マゾはもちろん、「理想的な青春」という避暑地を想像しながら現実の自分を見て自己嫌悪に陥ってるので、「ここではないどこかに行きたい」という欲望はあるはずなんです。結果的にどこにも行けないんですが……。それと同じように、「現実(ここ)ではないどこか」を時間軸のベクトルで志向するとレトロになるし、異界・黄泉の国などの伝承に基づくとオカルトと結びつくような気がするんですよね。最近流行ってるもの─例えば異世界転生や陰謀論─なんかを考えても、やはり「ここではないどこかへ行きたい」という基礎的な感情がありますよね。というか、今の日本ってもう終わってるから、もはや国全体で諦めムードとノスタルジックな機運が高まっていると睨んでます。
 それを象徴するのが新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』で、この作品は廃墟を扱ってるんですね。監督は以前「日本はもう終わっていくんだから、それに向き合って作品を作る」みたいなことをスペースで仰っていたんです。『君の名は。』では巻き戻って災害を逃れた一方、『天気の子』では東京を水浸しにして滅ぼしてしまった。じゃあ、もう滅ぶことは確定なんだから、滅んでいく日本を題材にして映画を作ろう……。こんな感じの思惑があったんじゃないかと推測しています。それが、各地を「戸締まり」していくことなのかなと。
 こんな世界は捨てて違うどこかへ移ろうみたいな雰囲気ってかなり全体化してる印象があるんですが、お二方はいかがですか?

牧野:レトロとの繋がりの前に異世界転生についてお話しさせて頂きたいんですけど、最近のラノベってタイトルがすごく直接的になりましたよね。今まではお洒落で凝ったタイトルもあった中、タイトル時点でいかに伝わるかが重視されていて、瞬間的に消費される物になっているように感じます。

松尾:たしかに、二次創作の同人誌の方がむしろお洒落なタイトルをつけがちですよね。ああいうラノベってどういう層に受容されてるんでしょうか。

ペシミ:僕がよく言ってるのは、ラブコメの受容層は中高生に多くて、異世界系はもうちょっと上の年代が読んでるイメージですね。やはり、停滞した日常の刺激材として、追放系とかざまぁ系はよく効くんだと思います。

牧野:あー、なるほど。それ関連だと、昭和のテレビやアイドルが好きで懐古するファンの一部に、「だけど今のアイドルはダメだよね」とセットで言ってしまうタイプのファンが私は苦手なんですよね。上の世代だけでなく、若い子で昭和アイドルが好きな人の中にもそういった人は一部いて。何かを好きと言うために何かを下げる必要ないなと思うんです。

ペシミ:めちゃくちゃわかります。そういう褒め方が世代に限らないのは鋭い指摘ですね。もはや平成レトロとか言われる時代に、レトロ研さんは昨今のレトロブームの起爆剤は何だったと推察してるんですか?

牧野:レトロブームの火付け役はやっぱりSNSですよね。今まで見られなかった昔のコンテンツにアクセスできるのがとても大きいです。OBの方が仰ってたのは、例えば数十年前に山口百恵ちゃんにハマったら、昔のレコードを聴くことくらいしかできなかったわけです。雑誌も写真集も売ってなくて、ビデオも高かったので。今は当時録画されたものが大量に出てきてますよね。

ペシミ:一時期YouTubeでジュリアナ東京とか流行りましたよね。

牧野:流行りましたねー、インターネットで新しい情報が次から次に流れてきて、みんな疲れてるんですよ(笑)。そこで私は、今まで蓄積されてきたもので良いんじゃないかと思っちゃうので。ただ、この話は一般的に言われるレトロブームとはまた違う気がしていて。サークルメンバーの中には髪型を聖子ちゃんカットにして、80年代の古着で全身を揃えるような子もいるので、かなり形から入ってどっぷり浸かっていますね。なので、ネットで見るような昭和喫茶に行って写真を撮るようなレトロブームとはまた違った感じがあります。

松尾:自分はこれまであまりアイドルを見てこなかったんですが、たまたま去年知ったアイドルがいてすごく好きになったんですが、ちょうど知ったタイミングくらいで引退してしまったんですね。その後、インターネットに残っていた動画や音楽を視聴してどんどん沼にハマりました。今の時代は、アイドルに限らず「終わりの価値観」が異なりますよね。昭和アイドルと違って、現在と完全に断絶されるわけではないアイドルの在り方になっていますよね。

牧野:昭和アイドルはもはや一つのジャンルとして認められている実感があります。J-POPやK-POPと同じ感覚で「昭和アイドル」というジャンルがあるイメージです。私はもともとアニメが好きだったんですが、そこから昭和アイドルにも流れた理由として彼女らの「キャラクター的な在り方」に惹かれたのがあるんですね。若い頃は過去の動画でしか見れなくて、テレビの中にしかいない。もちろん今も存在はしてるんだけど、現在の本人と過去の本人は断絶されているというか。その視聴方法はすごく二次元っぽいですよね。キャラクターらしい在り方だったからこそ、コスプレ感覚で昭和アイドルの髪型や昭和のファッションを真似したくなるんだと思います。

ペシミ:アーカイブ化によって瞬間が記録できるようになったり、引退後も続いていく特徴はVTuberの特徴にも近いなと思いました。

牧野:それはありますね。昔だったらAKBだったところを、今はVTuberになって、「一人のアイドル」が復活してきたのが面白いですね。昭和アイドルは一人で活動して認識されることが多かったのが、平成に入って集団のアイドルグループが増えました。その先にあったのが一人で活動して認識されやすいVTuberで、また戻ってきたんです。

ペシミ:たしかにその通りですね、昭和アイドルは大抵少人数だというのは指摘されて初めて気付きました。

牧野:多くてもおニャン子クラブくらいで、だいたい一人です。みんな事務所関係なく仲良くしてましたね。昔はアイドル水着大会とか開催されてましたけど、今の放送倫理だとありえないですね(笑)。
 混沌とした空気感、未完成な感じが楽しかったのかな。聖子ちゃんとか可愛らしいですけどお化粧は薄めで、完成され尽くしていない少女っぽさが輝いてたんですね。舞台を降りて司会の人と話したりすると今ならセクハラと言われかねないギリギリの発言もあったりしてテレビの汚さが垣間見るんだけど、舞台が輝いてるのは事実なわけで、汚さと綺麗さが同居するカオスな空間が面白いんですね。

ペシミ:現状だと、テレビはなるべく汚さを排除しようとして、その汚さがインターネットに移った気がしますね。

松尾:話を聞いてとあるVTuberのことを思い出しました。2017からVTuberブームが訪れて個人勢が増加する中、2018年4月25日にとあるVTuberが行った雑談配信に計45人のVTuberが来たんですね。企業勢も著作権ギリギリのアングラなVTuberもいるところで史上最高人数の盛り上がりを見せて、伝説となったことがありました。ダークな面はありつつもすごい盛り上がりを見せたあの頃のVTuber文化は昭和のテレビの空気感に近いのかなと思います。

牧野:AKB以降の〝推し〟概念も考えられて、たぶんハイブリッドなんですよね。声優さんはソロでの活動が中心で昭和アイドルっぽいですし、オタクも変わってきてますね。聖子ちゃんのファンは聖子ちゃんの缶バッジ大量に買ったりしないので。

ペシミ:「萌え」が「推し」に変わった話とも関連しそうですね。萌え→推しの変化には「双方向性」と「資本主義」という二つのタームが関わっていると個人的に思うんですが、缶バッジを大量に付けるのは「推しへの愛=資本」の認識が当たり前になったからですよね。推しより以前の愛情表現と比べると、やはり特殊な気がしますね。

牧野:アイドルのコンサートに来てコールをしたりする「親衛隊」という熱狂的なファンたちが昔はいたんですが、彼らの愛情表現って資本と結びつかないなとそれを聞いて思いましたね。当時は事務所が親衛隊にチケットを渡していたりもしたみたいで。オタクに求められていること自体、変化しているなと。

松尾:「オタクが経済を回している」という言い方がありますけど、何かを好きであることへの努力や義務のハードルが高いですよね。

ペシミ:「金を落とさないオタクなんて(笑)」みたいな冷笑的な態度は結構見かけますね。

牧野:でも実際そうで、ソシャゲだったらお金を出さないと終わっちゃいますからね。私はサービス終了を何度も経験してますけど、終了したら「私らのせいだ」ってなっちゃう。ソシャゲが終了する前にアーカイブ化する法律が欲しいですね。

ペシミ:ソシャゲはそうですよね。消えたらすべて終わってしまう。

松尾:インターネットは、すべてが残せるけれど、すべてが残るわけではないんですよね。

牧野:ブログもサーバーが逝ったら消えますし。私が小さい頃はパズルゲームが5000円くらいした覚えがありますけど、今この値段でパズルゲーなんて誰も買わないですよね。


ペシミ:ここで若干軌道修正するんですが、松尾さんがオカルトを好きな理由って何かあるんですか?

松尾:僕は単純に知らない景色を見たい気持ちが強くて。あとは京都でオカルトサークルって秘封倶楽部っぽいですし(笑)。なので、オカルトに対する興味は後付けなんですが、会員の話を聞いてるとまだまだ知らないことが多くて楽しいですね。
 さっきも「ここではないどこか」の話がありましたけど、ウチのオカ研が特に意識してるのは、「ここではないどこか」へ行ってしまったらもう終わりなんですよ。死んでしまうので。あるいは反社会的な団体や宗教関連の組織とも界隈が近い分、その辺には慎重でありたいなと思っています。あくまで安全圏からオカルトを楽しみたいですね。
 オカ研の会長はエヴァが好きなんですけど、サークルの目標として「自己理解・他者理解」を掲げてます。現実以外のどこかを見ることで分からないものを分かろうとする姿勢はサークルを通して持っていたいですね。

ペシミ:エヴァ好きを公言しながら目標として「自己理解・他者理解」を掲げるのは、なんかこう……切実なものがありますよね……

松尾:会員は個性的な人が多いですね。いつも自分に人外情報を共有してくれる会員とか。

牧野:私はもう幹事長は退いたので偉そうなことは言いたくないんですが、メンバーの子には今の文化を否定しながら昔の文化を好きだと言う子がたまにいるんですね。ただ、さっきも出た通り「ここではないどこか」へ実際に行ってしまったらダメなので、この場所、今の時代から見ているからこそ輝くものがあると思ってます。

ペシミ:それは本当に大切ですね。何かを否定しなければ別の何かを好きと言えないのは鍛錬が足りないんですよ。何かを好きと言うことには語彙も必要だし、責任も生じる。そこから逃れるために何かを否定するくらいならば、口を噤んだ方がよっぽどいい。やっぱり、作品に対しては誠実でありたいものです。

松尾:とは言いつつも難しいですよね、自分も好きなものを他人に言う機会がなかったので。でも、レトロ研究会さんの場合は「ここではないどこか」が同じ次元にあるからまだ大丈夫ですよ。こっちは取り込まれたら死ぬので(笑)。

ペシミ:今日のお話で改めて思うのは、いずれにせよ「ここではないどこか」を想像できること自体がかなり重要なんですね。そしてその一例としてLiminal Spaceがあり、現実で逃げ込めるアジールとしてレトロやオカルトを扱うサークルがあることは大きな意義があるはずです。僕がそういうサークル群が好きというのもあるんですが、ぜひ今後もずっと続いていって欲しいなと願っております。本日は、貴重なお話ありがとうございました。





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