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#2 踏み外したレール

26歳までは寝ずに働け!

 あの日がなかったら、今日の私はない。何度もそんなターニングポイントはあった。振り返ってみても、奇跡的に出会ってしまった人や、ドラマっぽい選択をした時は、自分の記憶に鮮明に残る。運命の日っぽい日は最近でいうといつだっただろう。1日1日を丁寧に大切に。もしかすると今日をその日にすることもできなくはない。かもしれない・・・・


理想と現実の正解と不正解

 東京に出てきて6年。出てきた理由を遡ってみれば、大したことのない悩みと、描きがちな将来のためだった。22歳って若くしも老いていて、ちょっと知ってる大人の人たちを見ては重ね合わせて自分の将来を勝手に決めつけていた。その頃の28歳の理想計画を赤裸々にいうとすれば、私はもう結婚をしていて、子供がいて、実家の大阪に住んで家族仲良く暮らしている・・・。

さて、そんな私は28歳。結婚なんぞも程遠く、子供の「こ」の字も皆無。東京に腰をおろして、膝の上には猫までいる。

そんな現実を生きている28歳の私から見ると、思春期の女の子が考えた展望は非常に穏やかだった。イメージして出てくる景色には笑い声、登場する人は暖かい。悲しいことから目を背けた願い事は、平穏な暮らしの中で生きていくことだったのかもしれない。この計画は間違いなく幸せのレールにのっていて、幼い頃の育った環境からまたそれを求めている。今でもそれを正解と言える・・・。しかし、この膝の上の猫に救われて生きる今日は、落ち込んだり、悔しく思ったりしながら、いろんな形の積み木を重ねて、やっとひとつ小さな何かができるようになっている。

本当に存在していた「料理家」という人

 あたらしい街にふさわしすぎた東京の生活が始まってから、気になるモノやコトは全て、少し足を伸ばせば触れられる距離にあった。「22歳」「上京」きっとタイミングが良くも悪くもハマりすぎていた。何もなかった私は、気づけば新しい自分になろうとしていた。学生時代の通学路を支えてくれたアーティストも、お洒落になりたくて真似したあの雑誌のモデルも。全部があって、みんながここにいる。その刺激の幻想に包み込まれたが最後、頭の中の理想計画は徐々に「夢」が埋め尽くし始めた。

食に希望を感じ、料理に憧れ、料理人を目指した。刺激で半分色染められた私は、「レストランのシェフ」「自分の店を持つ」。学校で習ってきた料理人の模範像に首を傾げたまま、本屋で目の当たりにした1つの雑誌、その中の1ページに新しい世界をみた。
料理家たちのケータリング特集!読み進めてわかったことは、店を構えずに自分の料理を提供する。「そのレストランの店員が」ではなく、「各々の人がチームとして」提供する。非常に自由形でかっこいい。教科書で習った夢や目標への逆算式の方法に対し、創造しながら進めるこのあり方は、積立式のように思った。夢はあるはずなのに、やりたいことがわからなかった私はこの積立式なら夢へのたどり着ける気がした。

 それからまもなくアシスタントについた。湘南の海で地引網を引いてはロケをし、東京タワーの見えるビルで料理を並べ、カメラが回る前で手際良く料理を作る。時にはスーパーで売られている商品を美味しくみせ、極寒の海で毛蟹を取りに船に乗っていた。テレビや雑誌で見てきた「料理家」という嘘みたいな本当の職業は確かに目の前に存在した。


ディズニーランドと初めての案件

 見様見真似でポートフォリオを作り、まぐれのような出会いを重ねついに私にもチャンスが宿った。細川芙美宛にケータリングの案件が届いたのである。今まで見ていたものを、今度は私が作る番。胸の鼓動は高まる一方神様は残酷で、その日程は当時付き合っていた彼が誕生日プレゼントに用意してくれたディズニーランドのチケットに書かれた日と同じだった。Y字に別れた「思春期の理想計画」と「刺激に触発された夢」の2つのレールの分かれ道。

数ヶ月後、私はケータリング屋として数々の現場をこなすようになった。


 追求すれば力のなさを知り、同世代の活躍に眩しく思ったり、準備不足で迷惑をかけたり。それでも1回の「今日のお弁当大好評でした」のメッセージに支えられ、自分の仕事の意味を知る。もがいてる日の方が多く、思ったように伝えられないことばかり。このレールの上を走る以上は果てしなく道が続いていて、到底ゴールなど見えない。けどこのレールはたくさんの枝分かれた道が現れて、いろんな場所と景色がまだまだ見れる。


このレールが本当に踏み外しているのかどうか、もう少し確認してみたい。


humi hosokawa


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