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#3 一通の葉書

28歳8ヶ月というアラウンドサーティー。

 刻々と迫る節目に対して、いまあるものを数えてみたり、頑張ってきたことを思い出してみたり。過去になんとか背中を押してもらおうと奮起するものの、自分の努力は過去ではなく今に存在してないと意味がない。

F-1のレースを例えに出せば、タイヤを太くすれば安定感がでるが加速が遅くなる。または、タイヤを細くすれば加速は速まるが安定感はなくなる。歳を重ねるたびに「妥協」を余儀なくされることが多すぎる。選ばなければならないのは「妥協するかしないか」ではなく「その妥協に対して何で補うのか」。タイヤを太くして、加速できない代わりに何をするか。タイヤを細くして、安定感がなくなった分どうしたらいいのか。妥協に対して補うことが妥協しないことに繋がる気がする。



過去を思い出させたお便り

 昨年出版した書籍「#ひとりじめ飯」に、少し時間がた経って函館に住む読者から1通の手紙が届いた。ユニークな言葉選びと若干の誤字と脱字、消しゴムで何度か消された跡、その鉛筆で書かれた全文の最後に書かれていたのはお名前と母親よりも10歳も上の年齢。SNSのDMやメールで届く感想とは違った、手の温もりや会ったことのないその方を想像してみたりした。相手に思いを馳せられるのは、世界に一枚しかない葉書を私がいまこの瞬間触れているから、手にとって相手の気持ちに傾けているから。私は昔から、伝えられない思いや、本当に知って欲しい気持ちをよく文にした。そして私の母親もよく手紙をくれた。そう思えばいつも元気の出ない時、心を励ます瞬間に手紙が届く。


明日の朝のパン

私の作る料理はすべて、自分の過去から引っ張り出した記憶。本で紹介している、「クロワッサンドック、まいたけとちょっといいソーセージ」。この料理には私と私の母の思い出がつまっている。
まだ家族が全員そろって住んでいた前の実家では、オーブンレンジの上にいつも明日の朝のパンがあった。パン好きの母親。夕方に「明日のパン買っとかななぁ」という母の声。大阪の南海なんば駅のすぐ下にある高島屋のデパ地下、いつもフォションでパンを買った。山形食パンはいつもトレーの上、時々買われるクロワッサンはちょっといいことがあった時、なにか頑張った時があった日だけ。幼い記憶をたどり「クロワッサン」がある日を思い出すときは、いわゆるいい日なのである。高島屋に行くとき、母親はちょっとお洒落をしていた。そして私にもちょっとお洒落をさせた。泉大津から南海電車に揺られ40分、田舎者と思われないようにアーバンを装っていた。それを思い出し、ひとりじめ飯のクロワッサンドックのページを開いてみた。

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およそいきをすること・・・

 着せられていたけれど、実は私は「およそいき」の響きが好き。なにか特別な1日になる、いやたぶん自らが特別な日に対して前向きに取り組もうとしている姿勢があるというか・・・。お洒落しようって背筋を伸ばすとちょっと視線が高くなって、いつも見ているものに対してちょっと客観視できたりする。だから時々ある「いつもよりちょっといい瞬間」を大切にしたい。そして明日の朝のパンを買うことによって、今日いいことがあったことを明日にも続かせたいと、襷渡しをしてるような感じもまたいい。

このメニューを考えた時、母親が教えてくれたおよそいきは、誰かのためにしてるのではなく自分のためにしていることにしっかりたどり着いていた。ビジュアル先行の料理は、しつらえることに忙しく味に手が回らないこともしばしば。きれいに出来上がったことに満足しておいしいかどうかを忘れてしまうから。でもまた食べたい!って思うには味で残さないとまたがないから。もっとおいしく食べたい欲がマヨネーズにめんつゆを入れ、ちょといいソーセージに負けないようにまいたけと相性の良い旨味の忍ばせた。

おいしいのために食事を作ること、特別な1日にするためにおよそいきをすること。事柄ではなくその過程と後の余韻のために選択をしたい。単純に明日もいい日にしたいからだと思う。

昨日から今日に、今日から明日につないでいく思い出の駅伝レース。一通の葉書は、読者のエールに心を励まされ、母の思い出明日の朝のパン、およそいきの本質と繋ぎ、街に金木犀の香りがしいたことまでも気づかせてくれた。学生時代駅伝ランナーとして1番奮闘した季節。でも今の私は頑張って走ってるのかどうかはわからない。できれば次の走者は自分で自分の背中を押せるたくましい私に襷をつなげるといいな。


お手紙くれた函館の方、ありがとうございました。

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humi hosokawa


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