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『中村仲蔵』と『淀五郎』

芝居噺の二大巨塔として『中村仲蔵』と『淀五郎』があります。どちらも役者の大出世を描いた作品です。

全く違うアプローチで進む噺たちなので、両方覚える人も結構多いと思います。

私は中村仲蔵は六年前に覚えていて、今回は淀五郎に挑戦しました。

落語的、講談的

二つをやってみて思ったのは、とにかく使う筋肉が違うこと。簡単に言うと、

「中村仲蔵=講談的」
「淀五郎=落語的」

ということになるでしょうか。

どちらも芝居のシーンなんかは地の語りで進めていかないといけないのは同じなんですが、中村仲蔵はその配分がさらに多くて、途中の浪人武士に出逢うくだりとか、そもそも前半の仲蔵が四代目團十郎に気に入られるところや、忠臣蔵の説明まで、全体の大半を地の文が占めているんです。

私はこれが嫌で、地を端折ってかいつまんでやってるんですが、それでもまだまだ長いんです。

その点、淀五郎は芝居の場面こそ地語りですが、それ以外は会話がほとんどです。なので落語的なんですよね。

喋っている時の筋肉

淀五郎は落語的な感覚なのでいつも通り、登場人物の感情に重点を置きながらしゃべるのでやりやすいと言えばやりやすい噺です。

一方、中村仲蔵は会話だけでは説明出来ないことが多いので、地の補足、地での描写に重点を置くので、地噺的な筋肉を要します。

なので仲蔵はお客に語り掛けるように喋りますが、淀五郎は人間のドラマを見てもらうように喋ります。押しと引きですね。

淀五郎の主人公は⁉️

主人公に関しても、中村仲蔵はとにかく仲蔵自身にフォーカスし、仲蔵物語に終始するのに対して、淀五郎は少し違います。

もちろん淀五郎が中心にはいるのですが、さらに二人の名脇役が登場します。

市川団蔵と中村仲蔵です。この二人に関しては、代数とか年齢とか諸説あるようですが、そこは抜きにして、この二人の対比がこの噺の面白さだと思います。

二人とも淀五郎を買っているんだけど、性格が違うから教え方が違う。団蔵は突き放す、仲蔵は手取り足取り教える、褒めて伸ばすか、けなして伸ばすか、こういう人間の比較は世間でもよく当てはまるし分かりやすいですよね。

僕はこの二人をそのまま落語の登場人物に当てはめてやっています。意地悪な市川団蔵は「大工調べ」の因業大家。優しい中村仲蔵は「百年目」の旦那。噺に出てくる人を他の噺の人物に置き換えるのは初めてかもしれないですね。

悩みのベクトル

中村仲蔵と淀五郎の悩みの違いも考えたいと思います。

中村仲蔵は、名題になって、やったー、ばんざーい、と思っているところに、当時は端役だった忠臣蔵の五段目の斧定九郎を当てられがっかりする。

淀五郎は、忠臣蔵の四段目の塩谷判官役の役者が病気で倒れて、その代役に選ばれ名題にもさせてもらって、ばんざーいと思ってるところに、由良之助役の団蔵から舞台で意地悪をされてがっかりする。

片方はダメな役をもらって、がっかりする。
片方は良い役をもらったがうまくいかずがっかりする。

ちょいと悩みが違うんですよね。

中村仲蔵がやる斧定九郎は当時は下っ端がやる役で、山賊ごしらえの酷い役。なので仲蔵はこの役を描き直すことからやらなくちゃいけないんです。絵で言えば、デッサンのやり直しです。

一方、淀五郎のやる塩谷判官は役者なら生涯一度はやってみたいと思うような最高の役。型もほぼ決まっている。なので、デッサン自体はもう出来上がっているけど、その色付け(淀五郎のやり方)が間違っていて、そこを工夫しなくちゃいけないわけです。

芸は肚

中村仲蔵は型自体を作り変えたわけですが、淀五郎は決まった型の中で「肚」を考えさせられたわけです。

「肚」は「はら」と読みます。

肚は、心とか気持ちのような意味で、派手に演出せずに、その人物の肚(心の中)に迫って、客に届くように演じていくのが大事だと、「淀五郎」における仲蔵は説いてきます。

落語にもこの肚が大事だとよく言われます。「セリフを肚に入れる」なんて言葉もあって、つまりただ喋るんじゃなくて、肚から、心からしゃべれという意味だと思っています。

今日は淀五郎と中村仲蔵について考えてみました。

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