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ポルノと福祉と人権と 作・三太

 私は現在、SNSとしての利用は、ほぼX(旧Twitter)をメインに運用している。
 元々は自分が書いている男性同性愛者向けの、ポルノ小説サイトの宣伝アカウントとして始めたものだ。
 この共同誌を共に作成している樋口芽ぐむさんとも、当時で言うTwitterを通じて知り合うことが出来た。

 自分の雑さの表れなのだろうが、私には自分の生活と創作、思考などを切り分けて考えることがほぼ出来ず、SNSでのアカウントも、とにかく自分が少しでも気になったもの、考えたもの、創作したものについて、ごちゃごちゃと、大量に並べ立ててしまう癖があるのだ。
 単純に言えば、ゲイポルノと福祉、災害や医療、人権のことなどを(しかもポルノ関連がそれなりに多めであり)、バラバラに、かつ、大量に、ポスト・リポストしてしまっている状態だ。

 そんな中、ポルノと真面目なポストを並行されると困る(ゆえにアカウントを分けてほしい等の要望をも含みつつ)という感じでのお叱りのダイレクトメール(以下、DMと表記)を、半年に一度ぐらいのペースで(コロナ禍時はもっと多かった)いただいている。

 DMでいただけることがまずはありがたいこととも思っていて、これがポストへの返信などの『表』で書かれてしまうと、いわゆる『炎上』などと言われる状態になりかねないのかなとも思う。
 そのあたり、私の投稿を目にしている方々には感謝しか無い。

 そして、そのようなDMをいただいたとき、都度こちらの考えは(けっこう長々と書き連ねて)返信しているのだが、その内容についてはあまりポストやその他の媒体でも書いたことが無いように記憶している(2度ほど、軽く呟いたことはあったかとは思うのだけど)。

 自分のまさに『思い』以外の何物でも無いのだが、それは『ポルノも福祉も、医療も人権も、あるいは災害における避難所のことも、そのすべてが自分にとっては『そのどれもが』『大事なこと』なんだ』と言うことだろう。

 もちろん人によっては『災害や福祉の現場での必要なモノゴトの順番を考えれば、ポルノ(性欲、と言い換えてもよいのだろう)とは、いったいなんたることぞ』と捉える人もおられるかとは思う。

 確かにそうだろう。

 私自身も熊本地震で避難所生活が続いたとき、ポルノ創作へと頭が一番に向いていたわけでは決して無いし。実際にそのようなことは頭に浮かびすらもしなかったように記憶している。
 避難所での日々は、『5分に一回、なにごとか起きるよね』と、自分達でも妙な笑いにしていたほど、常に何かが『起こり』『みなで解決』していかなければならなかった。
 それはもう、ただひたすらに『今日一日の、いや、この半日の、いや、この1時間の避難所を、どううまく回していくか』『この避難所に関わった人から、一人も災害関連死を出したくない』などの思いで、常に頭をフル回転させていたように思う。

 ただ、私の中では『食欲、睡眠欲と並んでの性欲』や『承認欲求や共同体の中における友愛感情・行動、利他的な感情・行動と、性的な欲求は独立して存在しているし、片方の満足が別の欲求を解消するわけでも無い』と考えているのだ。

 ある個人が存在するとき、その人が生きている瞬間瞬間に、いったい何に重きを置き、大事にし、気をかけ、あるいは意識から遠ざけるのか、それは他人にはまったく分からないことであるし、それゆえにその個々人にとっては『誰にも侵されずに済む自分一人の思い』ということになるのだと思う。
 そのときそのときでコロコロと変わる興味関心こそが、人がヒトとして生まれ『人間』へと育ちゆく『糧』なのでないのかと思っている。

 今日も私は、政治のある側面に怒りを覚え、被災者の在り様に涙し、かつての福祉施設や高齢者施設で働いていた日々を思い出す。
 テレビドラマに感動し、感染症の動向が気に掛かり、医薬品の不足を心配し、トイレに座ってはスマホを眺め、美味しかったランチを思い出し、スーパーやコンビニで買い物をし、気になった本を読み、姉の帰りがいつも遅いことに気を回し、円安の意味は分からないままモノが高くなったねと嘆息し、ガザの現状に怒る世界の学生に思いを馳せ、町内会の会合に顔を出し、食いだねとなる仕事でパソコンを開き、校区の避難所の準備会で発言し、そして変わらずのポルノ小説をカタカタと書き進めていく。

 そのすべてが『私』であり、それら『私』を構成する様々な事柄は、そのどれもが一瞬先の『私』に何らかの影響と何らかの結果をもたらしていく。

『あなたにとって、なにが一番大事なことですか?』

 もし私がこう問い掛けられたとしても、私は答えることを拒んでしまうだろう。

 ポルノも福祉も人権も、私にとってはどれも大事で、どれも欠かすことの出来ない『私』の一部なのだから。

BY 樋口芽ぐむ