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9月11日という日の剥製

数多の人間による終わらないでの願いがチームを組んで夏の後ろ髪で綱引きしている。二の足を踏んだまま枯れて逝く秋。

昨日今日とちゃんとお薬飲みました。千里の道も一歩から。寛解もまずは薬をしっかり飲むところから。

子の誕生日があり、ご要望によりアイスケーキを買ったは良いが某アイス屋のパチパチアイスがちびっ子には不評で笑った。子ども好きじゃないんか、ああいうの。いい大人がホールの3分の1はキツいって。まあ喜んでくれたので良し。

誕生日プレゼント、好きな物選ばせて買っている。私とは違うんだよな、と実用性で切り捨てられた者達を思い返す。確かにいらないんだよなぁ大きくなったら。だけどちゃんと望みが叶ったと言う体験はこつこつ積んで行かないと後で修正は効かないのを思い知ったので、これでいい。これがいい。

日記なら紙に書けばいいんだけど、何か書くときは携帯で打ち込む方がスラスラと出てくる。不思議だね。出力元は変わらないのに。

自分の生み出したキャラクターって愛せないなとふと思った。ついこの前あくたの死に際を読んで、私はもし自分の生み出したキャラクターを盗作されたらあそこまで怒れるのだろうかと考えてしまった。多分怒れない。自分が嫌いと言うより、どうでもいいと思ってる節がある。壊滅的に一次創作に向いていない。私自身の、単体の価値はきっとそれほど無い。

それなのに何かを作り出そうとする手を止められないのはどうしてなんだろう。 今見返して溜息をつきたくなるようなもの達でも、捨てられないのはなんでだろう。いつも何か抑え難い衝動のままに喚き続けている。

あくたの死に際
全部かなぐり捨てて身を削って、轟々と燃える火の中に飛び込まねば何も得られない。最悪それで焼かれて死んでも、進まない者には勝ち取る権利などありはしないんだ。
黒田、だいぶ好きなんだよな。


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