生きがいという言葉、いいなぁ。
生きがいって言葉、いいですよね。
生きる甲斐、生きがい。
甲斐があるっていうのは、"苦労しただけの甲斐があった"のように何か先に払った代償に対して、プラマイでいうとプラスになるだけの何かを後で得ることができた、みたいな時に使いますよね。
それでいうと生きがいって、生きるという代償を払った結果、収支が黒字になるだけの何かを得られるかどうかにかかってる気がするのは私だけでしょうか。
そもそも生きるという行為を代償と捉えるかという議論はあるかと思いますが、生命を維持していくのってなんだかんだしんどいです。寝るとか食事とか制約がある。
安全な環境を確保しなきゃいけないし。
生きるということそれ自体が大変なことなわけです。
では果たして、この人生にそんな代償を払う価値があるのか。
例えば"せっかく料理したのに、食べてくれないんじゃ作った甲斐がないよ"というように、
"せっかくわざわざ生きてやってるのに、見返りがこの程度なら生きてる甲斐がないよ"
てなことはあり得るわけです。
そういう意味で生きがいがないというのは深刻な問題ですよ。
だって赤字が増えていくだけですからね。
日々コストを支払い続けて、大した返りがないっていうのを続けていくわけです。
それは大変です。本当に、甲斐がないってやつです。
思えば"生きる"という行為だって、いろんな甲斐の積み重ねです。
例えば朝起きて学校に行くなり仕事に行くなりするとして、学校や仕事に行く甲斐があるのか、という問いを無意識にしてるわけですよね。
もし行きたくないなら行かなくてもいいわけです。でも行かなかったら、行く苦労と比較して赤字になってしまうという判断があるわけでしょう。
基本的に人間は甲斐があることしかしてないと思います。なんらかの理由でそれをやる価値があると思ってるからそれをやる。
ということは原則として、"生きている"以上はそっちの方が黒字になると思ってるということです。
"生きない"方を選択するとすると、それは死ぬしかないわけですから、今度は"死に甲斐"があるのかという問いが生まれます。
例えば三島由紀夫なんかはこの"死に甲斐"を見つけた人だと勝手に思ってますが、多くの人は見つけられないでしょう。
シンプルに怖すぎます。何があるのかわからなすぎる。死ぬってすごいことです。
喪失のレベルが段違い。
誰かと二度と会えないとかそういうレベルじゃなくて、会うとか、楽しいとか痛いとかそういう生きているから得られるすべての要素が無くなっちゃうということです(たぶん)。
生きている私たちはまだその世界を経験したことがないということになってます。
やっぱり怖すぎるので、死ぬのは赤字になりそうではないか、つまり死に甲斐はない、ということになりそうです。
とはいえ、死という行為はそもそも徳政令的に、これまでの貸借を全部チャラにする行為だとも言えそうです。
たしかにそうか。それなら赤字が溜まりまくっても、"生きる"をやめてしまえば、黒も赤もないわけです。
逆にいうと、最後にそれがあるならとりあえず今のところ赤字が増えていってもいいのではないか、という一旦の結論に落とすことも可能そうです。どうせ最後にはチャラになるなら、大穴を当てて黒字に転ずるまでは赤字でもいいか、というような。
生きる甲斐はないかもしれないが、生きるのをやめる甲斐のほうがなさそうだ、ということがひとまずの生きがいになっているということでしょうか。
ちょっとさみしいですね。