自己紹介

初めまして。「癒しの手」の佐藤です。
JR水沢駅東口1分のところでリラクゼーションサロンを開いています。

水沢の地でサロンを始めてから12年。

今は落ち着いて、ありがたいことにたくさんのお客様にお越しいただけるサロンになりました。
ですが、以前には自宅サロン、テナントサロン、雇ったり、雇われ店長になったりなどエステ業界でも色んなことを経験してきました!

そんな私のこれまでのことを、少しお伝えさせていただきたいと思います。


リラクゼーションがやりたい!と思うまで

神奈川県横浜市で生まれた私は、都会での生活に疲れ、もう満員電車に揺られたくないという親の希望で、両親の故郷の岩手県の県北に移り住みました。

中学高校と地元で進学しましたが、卒業後の進路についてはぼんやりとしか考えていませんでした。

両親と担任の先生からは大学進学を強く勧められましたが、「いやだ!大学なんか行きたくない!」と絶対に首を縦に振りませんでした。
何も勉強したいことがないのに4年も費やすのって苦痛に感じたんです。

そんな時に、なんとなくやってみてもいいかも!と思ったのが美容師でした。
当時、カリスマ美容師全盛期で、美容師のドラマや、美しく大変身するバラエティなどを観ては感動していたからです。

周囲の反対を押し切って、盛岡の美容専門学校に進んだ私は、テストでは常に200人中10位以内をキープ、努力賞、優秀生徒賞など皆勤賞以外は総なめにするほどの好成績を収めました。

美容師の国家試験も合格し、ヘアサロンへの就職も決まり、何もかも順風満帆、正直ちょろいと思っていました。

ですが、社会人はそう甘くはなかったですね。

美容師になったものの、今まで怒られたことがないほど注意される日々でした。

盛岡の美容室で働いていました

それもそのはず、

  • 指示されてからゆっくり動く

  • マイペース気質なのでさぼっていると思われる

  • 先輩にタメ語で話してしまったり

などなど、社会人としては全くダメ人間だったんです。

さらに追い打ちをかけたのは、ひどい手荒れでした。
仕事を始めてすぐ、我慢できないほどのかゆみに襲われ、両手の全部の指がひび割れで肉が見えるほど。
休日は皮膚科に通い、両手を包帯でぐるぐる巻きにされミイラのような状態で過ごす日々でした。

夜も眠れないほどのかゆみ、休日も営業終了後も勉強会、先輩からは毎日注意される日々で「ツライ、辞めたい」と親に泣きついたりもしちゃいました。

進学させてくれた親のことを思うと、辞める決断はなかなかできずにいましたが、「辞めてもいいんだよ」という両親の言葉で美容師を辞めることを決めました。

「私が望んでいたのはこんな生活ではない!自分のやりたいことをやるんだ」と決めた私は、ネイルかカラーコンサルタントの勉強をしようと一度地元に戻ります。

実家で暮らしながら働いて、勉強するためのお金を貯めようと思ったのです。

ですが、なかなかすぐには仕事が見つからず、職業訓練でPCと簿記のスキルを身に着けることにしました。

そこで出会った方々とは飲み会をするほど仲良くなり、人生の先輩方の話を聞くうちに、結婚して家庭を築いてパートくらいな感じでもいいかな、と思うようになりました。

そして、訓練を終えた私が選んだのは、時給が良く、安定した金融機関のパートでした。

土日祝日は必ず休み、決まった時間には帰れて、お昼休みも1時間きっちりととれる。
今でこそ当たり前とは言えますが、お昼ご飯もろくに食べられず、土日休みの友達とは遊ぶ時間も取れない美容師だった頃からしたら、夢のようなパート生活でした。

金融機関で働いていたころ

ですが、1年、2年と続けるうちにまた、悩むように。

当時、私は出納係という億単位の現金を扱う担当をしていましたが、少しでも現金の計算が合わなかったりすると合うまで帰れず、重苦しい空気の中、間違いを探すことが私にとっては重圧でした。

そして、最も苦手だったのが、お客様の通帳の残高を見た上司に「あの人お金持ちだから定期おすすめして」と言われることが本当にいやでいやで。
人の懐事情を探る感じがどうしても好きになれなかったのです。

細かい事務処理も覚えることが苦手だったので、日に日に「やっぱり私は人にサービスを提供するお仕事がしたい」という気持ちが強まっていきました。

この時27歳。
周りからはそろそろ結婚しないの?ともいわれる年頃でしたが、私はなんと仕事を辞めて大阪に行くという強硬手段を選択したのでした。
いやー、なかなかの親不孝ですね。

「もう誰かに雇われたりせず、自分の決めた道を進もう!」と、決めたら絶対に意見を曲げない私は、当時お付き合いしていた彼を岩手に残し、親には大阪で暮らす段取りまですべて決めてから報告してマッサージの勉強をするために、一人大阪へ向かいました。

大阪でマッサージ三昧な極貧時代

大阪では、なんで東京じゃなくて大阪に来たの?と会う人会う人に尋ねられました。

その理由は、リラクゼーションスクールの説明の方の対応がすごく丁寧でよかったことと、関西地方を見てみたかったから。
一度も見学に行かずにスクール入学を決めるなんて、かなり変わっている人間かと思いましたが、私だけではなく、年に数人はいるみたいです。

スクールではもみほぐしをはじめ、バリ式オイル、リフレクソロジー、などを学びました。

リラクゼーションスクールの先生たちと

当初は半年間のスクールが終わったらすぐに岩手に帰って開業しようと考えていましたが、卒業する時点で、このまま岩手に戻ってもプロとしてやっていくのは難しいと感じました。

施術の仕方を覚えても、実際の現場で通用するかどうか疑問に感じたためです。

一度戻ったら、簡単に勉強しには来られない距離ですので、しばらく大阪で経験を積むことにしました。

  • なんば駅前の整体サロン

  • ガイアの夜明けに出演した高級カプセルホテルのリラクゼーションサロン

  • バリ式リゾートサロン

  • 自宅マンションでモニターを募って施術

変わったところでは、パチンコを打っている人の肩をもむというアルバイトもありました。
お客様があまり多くない店舗では、何回も営業に歩き回りすぎて、「うざいからやめてくれ!」とクレームが来たことも。
「クリスマスなのになんでこんなことしてるんだろ」と泣きたい気持ちを抑えて仕事をしたことを覚えています。

少しでも岩手に戻るまでにたくさんのことを吸収したくて、お金が貯まったら

  • 小顔整顔

  • タイ古式セラピー

  • 痩身リンパ

  • まつエク

など気になる技術を学ぶことにすべて使っていました。

お酒を飲むことが好きな私ですが、ミナミに住んでいたのに大阪を満喫できなかったのが心残りです。

1年半ほど経ったころ、このままではずっと住み続けてしまいそう、と不安になり、30歳を目前にして岩手に戻ることに決めました。
それくらい、私にとって大阪は人も食べ物も、環境も最高な場所でした。

岩手に戻って、そして自宅サロンを始める

岩手に戻ってからは、すぐにサロン開業!とはいかず、くすぶり続ける毎日でした。
転勤族の交際相手でしたので、地元でサロン開業していいのかどうなのかはっきりせずプロポーズを待つ日々。

そんな時に、東日本大震災が起きました。
内陸に住んでいましたので津波が来ることはありませんでしたが、信じられない光景が毎日テレビで流れました。

「今の私には時間がある!なにかできることをしたい」と思い、震災後のボランティアも何度か参加しました。
主に被災地の仮設住宅で少しリラクゼーションを提供するというものでしたが、実際に避難生活を強いられている方のお役に少しは立てたかなと思っています。

そして1年が過ぎようとしたころ、転機が訪れました。
交際相手が転勤になったのです。
別れるか結婚するか、どちらか選択して!と迫り、結婚をすることを無事選んでいただけて引っ越ししてきたのが今の水沢です。

住んでいる自宅の一室で始めた小さなサロン。
最初は本当にお客様もパラパラとしか来ていただけず、ただ焦るだけの日々が続きました。

大阪での自宅サロンでは予約が毎日満席状態だったのに、何がいけないのだろう、考えても答えがわからず、時間だけが過ぎていきました。

珍しい技術や、需要のある技術を取り入れたらお客様が来てくれるかもしれない、と思いしょっちゅう東京に勉強にも行きました。

そんな試行錯誤の甲斐あって、少しずつお客様が増えてきてこれから、というときに妊娠が発覚しました。
ですが、妊娠と同時に切迫流産が発覚し、入院生活になりましたので、お腹に負担がかかるこの仕事はすることができなくなってしまったのです。

予約のお問い合わせをいただいてもお断りしなければならないのか心苦しく、早く仕事がしたいと病院のベッドの上でずっと考える日々でした。

無事出産した後、外の世界と関われないことがストレスで苦しかった私は、半年ほどで仕事を再開しました。

といっても、保育園などは入れませんでしたので赤ちゃんをベビーサークルへ入れてその部屋で施術をしていました。

泣いたりわめいたり色々していましたが、あの時温かく接してくださったお客様には感謝しかありません。

その時私は思いついたんです。
人を雇ってサロンを開けば自分が稼働できなくてもサロンが営業できると。

ショッピングセンターでテナントサロンへ

今になって思い返すと、ほんとに勢いだけで動いていた感じで、知識も何もなくよく始めようと思ったなと思います。

求人募集をしたところ、運よくスタッフもすぐに見つかり、水沢のショッピングセンターメイプルでテナントサロンをオープンしました。

2016年にオープンしたばかりの頃

最初は、売り上げを知るメイプルの運営から「一人でやったらいいんじゃない?」と言われるほどの状態でした。
赤字ではないけれど、利益もない日々。お給料を払うだけで終わりという感じでしたね。

でも、徐々にですが、気軽に来られるショッピングセンターということもあり、口コミでお客様が増えていきました。

料金も手軽でスタッフによる技術の差が少ない、という評価をたくさんいただけて、毎日満席になるほど愛されたサロンになれたことがとてもうれしかったです。

そのまま順風満帆なサロン営業が続くかと思われましたが、そうはいかずまた転機が訪れます。

ある日、ポストに入っていたお手紙。
「半年後にメイプル閉店となりますのでテナント様は退去していただきます」というお知らせでした。

ショックで目の前が真っ暗になりました。
メイプルで開業して7年、やっとここまでお客様に愛されるサロンになったのに突然終わりになってしまったのです。

自分の努力だけではどうにもならないことがある、そして悪いことは重なるもので、ずっと経過観察をしていたものの手術が決まったのもこの時でした。

コロナ禍でサロンもダメになるんじゃないか、そんな不安を抱えながらも必死に守り続けてきたものがあっけなく終わってしまう感じがして、何もしたくない、動きたくない状態にまで陥ってしまいました。

ニュースを知ったお客様方からは「もちろん移転するんだよね?」と言われましたが、それすらもつらくなるくらい現実に目を向けることを避けていました。

そんなときに、雇われ店長としてやってみないかというお話をいただいてこの状況から救ってもらえるなら、と藁をもすがる思いでそのお話を受けてしまったのです。

ですが、本来自分のやりたいことをやりたいという思いが強い私のことなので、雇われ店長という働き方はやはり性に合いませんでした。

そして新しい出発

「だからはじめから自分でサロンをしたほうがいいって言ったのに」と周囲にはたくさん言われました。

それでもすべてのことが勉強。
私にとっては、自分がいいと思ったものを自分の納得する形で届けたい
ということが一番大事だったんだと気づきました。

人の体の事も勉強すればするほど奥が深くて死ぬまで勉強してもしきれないし、美容業界も日々どんどん新しいものが出ています。

2024年のビッグサイトでの美容展示会

何歳になっても頭は柔らかく、これが私がいつも思っていることです。
常にいいものを追求して、検証してお客様に届けていきたいと思っています。

お店を始めたころは、メニューが少ない方がよい
というのがビジネスの鉄則で、メニューが多すぎるのは専門性がなくあまりよくないように言われていました。

でも、実際お客様から言われたことは
「ここに来れば何かやってくれる」
「メニューがたくさんあって全部試してみたい」
というポジティブなお言葉でした。

私にとって新しいものを取り入れることや、
いいものを探すことを我慢するのは難しいことですので、
これからもどんどん追求していこうと思っています。

「今こんなことに困っている」
「こういうメニューないの?」

など気軽に投げかけてください。

絶対にないとはいいません^^
なかったら調べるか作ります!


正直様々な出来事があった後は、疲れすぎて
「サロンを続けてほしい」というお声がなかったらここまで立ち上げる気持ちにはなれなかったと思います。

今はたくさんの関わってくださった方々に感謝し、この仕事を続けられることの喜びをかみしめて毎日をすごしております。

じっくり時間を取っておひとりおひとりとしっかり向き合いながら施術していきたいと思っています。
じっくり味わってみてくださいね。

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