読書メモ

ジュディス・バトラーの問題提起

A.主体構築のラカン派の見解はヘゲモニーの概念と両立できるか。
 ⑴不完全な主体は、切断線が引かれて、それが主体は主体構築の条件や構造として措定されているからであるか。
 ⑵それとも、主体形成は不完全であり常に<過程にある主体>が構築されるからであるか。
【コメント】
 ・ヘゲモニーの概念が想定している主体は不完全でなければならないのか。おそらくそうだと思われている。ただし、それはなぜか。
 ・「ラカン派の言う切断線に依拠する場合、ヘゲモニーが提示する戦略的な問題と折り合いをつけることができるか。」については、ラカン派の見解はそもそも政治的な闘争にどうな関係を持ちうるのか。政治への無関心はダメなのか。そもそもなぜラカン派なのか。
B.「決定」に関するデリダの概念は政治的な領域と関係するのか、政治的な行為体が求める様々な交渉を説明できるのか。
【コメント】
 ・なぜいきなりデリダを言及されたのか。なぜ「決定」の概念なのか。
C.「論理」と社会実践の関係性がどうなものなのか。
【コメント】
 ・「論理」は特にラカン派の理論と理解して良いのか。その理論は先験的でヘゲモニーのプロジェクト(社会実践)に一切に関わりを持つことができないとジュディスが考えているのか。
D.精神分析は政治理論になりうるのか。
【コメント】
 ・C.の一例。
E.形而上学の同一性理論は一つに収束することは可能なのか。
【コメント】
 ・質問の意味が不明。
F.主体位置をパフォーマティブに引き受けるとは、どう言うことなのか。
【コメント】
 ・質問の意味が不明。
G.性的差異は闘争の中に存在しうるのか。
 ⑴性的差異について差異であること以上の何事も言えないのか。
 ⑵ラカン派の言う「現実界」の領域なのか。
【コメント】
 ・フェミニズムに関心はないが、そもそも性的差異をどう使っているのか。経験的?現象学的?超越的?…
 ・ラカンの「現実界」である場合、象徴界に対する剰余として何も意味することができないのではないか。ジジェクが「現実界」をどう解釈するつもりなのか。
H.ラカン派の理論はヘゲモニーと整合が取れるのか。
【コメント】
 ・Dの延長。
I.ヘゲモニーが有効なカテゴリーなのか。
J.ヘーゲルとカント云々
K.批判理論の権威がどこにあるか。

【全体に対するコメント】
・社会実践、特にヘゲモニーが提起する戦略に対する理論の可能性、特にラカン理論の可能性への疑い