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短編:劣性遺伝子の夢から醒めると、そこには一様に食傷を悼む陪審員の群れ。

赦されるのならば、最期のさいごは、いとしいあなたと話がしたい、と強く思った。それを叶えるための唯一の道筋はきっとずっと前からわかっていて、そして私はそこにたどり着くことができないであろうこともまた、どこかで気づいていた。愛されるに能わない。傷つけるに能わない。赦されない。私はもう、赦されることはない。

昔から、純粋な物事が好きだった。薄汚れた現実の自分を蔑むようにして、その乖離に罪悪感をおぼえることができたから。そしてそれはきっと、何も思い出せない程に時が経って尚、悲恋にも似た疼痛となっていつまでもその胸に刻まれるから。美しくは生きられない、私。それでも嘘をつかず地べたを這ってみっともなく生きる、私。ぼく。俺。そして、あなたのことも。汚れていればいるほど、穢れていればいるほど、生命は美しく、真夏日のアスファルトをなめる陽炎のようにじらじらと滲んで見えた。私は、飾りたてないことを選んだはずだった。

昔から、小綺麗に纏めた言葉が大嫌いだった。人は汚い。人は醜い。人は浅ましい。人は弱く、脆い。故に泥臭く美しく抗う。そう思わなければ、そう思い込まなければいけなかった。嘘を排して生きようとした。飾らないことこそが美しく、欺く事を是とする彼らを見下すことで私はちっぽけな自尊心を守った。虚飾・粉飾によって見目麗しく整えられた装いを心の底から嫌悪することで、自らの醜悪さを肯定しようとした。私には、名前がなかった。

只ありふれた5文字を、私はついぞ最後まで口に出すことができなかった。冷水をかけられたような、サスツルギのような言葉の嵐が雄弁に語ったあたたかな想いから、私はついぞ最後まで目を背け続けた。病室でひとり、緩まる鼓動。秀でる蠕動。U.N.Owenとその支配下に於ける律動。蕭々と降り積もる、自らへの失望。他人への羨望。

「うんうん、だから手に入らないことを望んだんだね。手を離すことを選んだ。君はしあわせになりたかったんだ。失うことは、ふしあわせだものね。もう二度と、自分の手から大切なものが溢れ落ちないように、はじめから何も掴まないことを選んだんだね。」

とろりと冷たい液体に包まれているかのような、ゆるい絶望だけがそこにある気がした。私はそれに絡め取られたまま、なす術なく息を止める。膝を抱える。背中を丸める。そして、苦しみが閾値を超えた瞬間、絶望は喉を滑り落ち、肺を満たす。不思議と苦しくはなかった。動脈を通うのは細胞を燃やすための、それでいて酸素とは掛け離れた『ナニカ』。しかし肺胞を埋め尽くすそれは、必ずしも"毒"ではないように思えた。

ぜつぼう。たった1fでも君に縋りたいと思ってしまった、その本能的依存への激しい嫌悪。遺伝子のベクターとして自身の人生を規定してしまうことへの嫌悪。何ひとつ背負うことのできない自分が、愛するあなたに負担だけを強いてしまうことへの嫌悪。他人の優しさにフリーライドすることでのうのうと生き続ける自身への嫌悪。そして、その徹底的自己保身が、何よりもあなたを想い続けるという願いを淘汰した事への、暗く深いぜつぼう。

マジックミラー越しに眺める、サヴァン達の織り成す人生群像劇。指をさして笑う、あなたの横顔に見惚れてしまった自分に、ひどく失望した。ねぇ、そんな顔ができるのに、なぜあなたは私を罵倒してくれなかったのだろう?

ああ、でも、今ならなんとなくわかる気がする。きっとあなたにとって私は、蔑むにも及ばない、とるにたらない、ニットのほつれのように歯牙にもかけられない、この世に遍在する、ひとつの『デフォルト』に過ぎなかった。ただありふれたひとり。ただありふれた想い。ただありふれた──きっと両手の指では数え切れられないほど向けられてきたであろう──あなたを刺す『好意』の、『まちがい』の、たったひとつ。

「ああそうか、だからいつも、君はわたしにやさしかったんだね。君は、わたしが欲しかったんだ。」

目が醒めた。遺伝子の夢から。縮まらない二重螺旋構造にあなたと私をあてはめて、それでいて縮まらない距離に悦に入るような。そんな、私らしく、浅ましい空想の機序から。

ごめんなさい。私はまちがえてしまった。

今はただ、狂おしいほどあなたが憎い。ただそこにいるだけで、浅ましさをありありと映し出し、私の心をひどく斬りつけたあなたが。ただそこにいるだけで、私の誰かの記憶に深く刻まれてしまうあなたが。ただそこにいるだけで、私が心の底から望んだ、藻掻いても抗っても手に入れられなかったそれを、踏みにじりながら笑うあなたが。

だから、さよなら。もう、私はいくよ。

「うん、それでいいとおもう。でも、わすれないで。」

「もう君が捨ててしまったぜつぼうのこと。それを必死で掴もうと苦しみ続けた、あの日々のこと。君自身のこと。」

「死んでしまった君を、君は、君が、もう一度殺す必要があるということ。」

「もしそれができるのならば、もし君がそれを望むのであれば。───君の最期は、わたしが与えてあげるね。死体は、いつかの給水塔の下に埋めてあげる。」

「うふふ。いたい? ねえ、いたい?」

「嬉しいでしょう? 幸せでしょう? 今まで積み上げた苦労が全て報われたかのような、恍惚とした陶酔に脳が支配されている、そのはずでしょう?」

「ねぇ、ねぇ、なんでそんな顔をしているの? どうして、なんで、わたしのことを見てくれないの……?」

「謝らないで。ほら、笑って。これは、君の望んだ結末なんだから!」







「……ねぇ、ほんとは、ほんとはね。私はいつだって、最後まで君の死なない物語を、願っ───


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