日記#23.03.30
私をどうにか突き動かす事のできる熱源は、しかしいつもどこか冷たく、暗い色を孕んでいる。不自然なほどに底知れない明るさや、ロックンロールやパンクの強欲な熱ですら、おそらく私は深く暗い失望から抜け出すため変容した物として受けとめている。底のないものは並べて恐ろしい。ならば私は、そこから抜け出すために、きちんと抗っているのか。
いや本当は、きっと私は飲み込まれたいのだ。絶望と抱合せの希望を求める体系の内にいなければ、きっと私はこの世の全てを実感できないままに時間を食いつぶしてしまうから。明るさと強さによって複雑に編み込まれた体系の、それでもその網からいずれ取りこぼされてしまうような人間が私で、そしておそらく私は私と同じ体系の内に住む人間と話すだけでは満足できないからこそ、より深く絶望していく。
呼べよ、私を。何ひとつ満足に満足できない、欲望だけを見つめ続けて何ひとつ自助努力を行わない、ただ漫然と自己否定に甘んじてそのくだらない快楽を貪り続ける、浅学で堕落しきった幼稚で欲深い最悪のマゾヒストと。
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シネマイレージカードの6ポイント視聴で見に行ったシン仮面ライダーは明らかに「仮面ライダー」を意識した映像で、私の求めていた「シン・映画」ではなかったように感じた。それでも独特の構図がきちんと私の心を惹きつけたし、メモ帳にも幾らかの表現が加わり、決して無意義な映像体験にはさせないところが誰もが知る庵野秀明おそるべしといったところだった。
そのまま高校時代のバンドメンバーと酒を飲みにいった。当時は互いに恨みつらみもあったのだろうけど、今となっては「二度とバンドは組まない」という制約のもと二人楽しく話せるようになり、成長と時間の恐ろしさを改めて感じた。
珍しく恋バナなどガッツリと構えてしてみた。彼の歌詞が思いのほか私のことをえぐるようになり、私自身の懐のひろがりも実感。結局エゴイストはエゴを隠してしまうより、互いの刀で斬りつけ合いながら間合いをジリジリと探り合うしかないのだという結論にたどり着く。そんな事は分かっていたはずだし、私だってもっと上手に打算的な恋愛を進めたこともあった筈なのだけど、いつの間にか出来なくなってしまったし、あまりやろうとも思えなくなってしまった。その事実はただひとつの通過儀礼を果たしたという事にすぎないのだけど、こと恋愛に絡まってしまうとどうしても大仰に捉えてしまうのは、人間の浅ましさか、それとも利己的な遺伝子のベクターである所以であろうか。ひとりの時間をふたり分け合ってかけ算になるような関係性を「あわよくば、願わくば」と思うようになっていった自分と、「受注生産じゃ!!」と暴れまわった彼とで、おおきな拓きがあることは疑いようがなく、私の積み重ねてきた「人と友達になりたい」という前段階の過程がどれだけ人より遅れていて、そしてその獲得のために費やした膨大な時間のせいで相手との間に引かれたグリッド線を決して飛び越えることができない、極めて画一的な修正の効かないパーソナリティを獲得してしまったことを、嫌というほど実感した。
馴れ初め話がかなりユニークだったり、そのまま昔の失敗に話がスライドしていったりと話していてただただ面白く、人は寛解するとここまで本来の輝きを取り戻すのかと、少し眩しさすら覚えた。友人知人の中で一番はじめに結婚するのは彼になるのだろうか。式には呼んでくれと再三言い重ねたので、きちんとチーフを持参して訪ねることにする。数年後だと御祝儀はさして包めないだろうか……それだけが悩みの種であった。
私がバッドに入りかけてしまったので慌てて二人でカラオケに避難し、革命/MOROHAを熱唱。ヒップホップもロックも魂の名前らしいが、エモとマスは性癖の名前かもしれないなどと考える。高笑いしながらMONGOL800を絶唱。人に優しくされたとき自分の小ささを知りました、本当にそう。
ここ数日の日記は、駄作が続いている(→非公開にしました)。安っぽくとも軽快なレトリックを爆ぜさせることで私はアンチ・令和・オシャンティ・無印文学を表明しなければならないのに、量産型ファストファッションを嫌って黒チノパンと柄シャツを日々淡々と取り替えるだけの似非スティーブ・ジョブズのような、かくもひもじい文相を呈してしまっている。ちなみに私の普段の格好はその柄シャツ+黒チノパンそのものなので、この文章すらレトリックでも比喩でもないただの事実と開陳である。事実陳列罪。被告人を80年の現世懲役と、刑期満了時の速やかな死に処する。閉廷。「──模範的に過ごせば、あるいは私の刑期も短くなるのかしら?」
朝がやってきた。出張に出かける父親と、パートに繰り出す母親がともに朝食を食べている。この空間にひとり紛れた穀潰しとして生きる私は、今日もモラトリアムを満喫するためだけに起きて家をあける。そんな事がしたいわけではないのに、手放したくない縁がいくつもあり、伴って日々の予定は漫然と埋まっていく。ああしかし、スケジュール帳の空白は必ずしも心の寒々しさを表現する訳ではなく、逆もまた然り。私はどこへ向かい、どこに居るべきで、何をしていくのか、なにひとつ、なにひとつ、わからない。
「ああ、夕飯はいらないよ。」
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