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ORIGAMI 3


図書館でおりがみの本を探すと、一般書のコーナーと児童書のコーナーの両方にある。今は一般書の高度な創作おりがみの本が増えたが、以前は児童書のほうが多かったろう。私は大人になってから『ビバ!おりがみ』がきっかけで始めたので、児童書のほうはあまり見なかったのだが、改めて見てみると小学校低学年向けの本に混じって、かなり完成度の高い作品が載った本も所蔵されているのに気づいた。前回紹介した桃谷好英氏のコアラが載った『動物のおりがみ』(新・おりがみランド11、誠文堂新光)もそんな一冊だった。

やはり児童書の中にあった津田良夫著『創作折り紙をつくる』(大月書店)を手に取ったのは偶然で、これは〈シリーズ・子どもとつくる〉という、ペーパークラフトや竹細工、木工などの工作を子どもたちと作るための本の一冊で、児童書というより児童と接する活動をしている人のための本だろう。

当時いろいろな動物おりがみを作って楽しんでいたのだが、山口真氏のラッコが立体的な造形だったので、おなかに貝を乗せられると思い、何かいい作品はないかと探しているとき津田氏の本と出合ったのだ。そこに載っていたのは今まで見たこともないような美しいフォルムの二枚貝だった。そしてよく読んでみると、二枚貝はその1からその3までの三種類が紹介されている。説明によると津田氏ははじめ二枚貝その1を作ったが、見ているうちに貝というより扇のように見えることに気づいて不満になり、貝のふくらみを出すために以前作ったダンゴムシの蛇腹を応用してその2を作り、さらに折る方向を変えてその3を作ったという。

二枚貝 その1
二枚貝 その2
二枚貝 その3

その2、その3はいずれも津田氏の満足いく作品だったようだ。それならばなぜ不満だったというその1をあえて載せたのだろうか。その2、その3だけを載せ、この作り方でこんな綺麗な二枚貝ができます、でもよかったはずである。そうしなかったのは、自分が新しい作品を生み出し、改良する過程を見せたかったのだろう。
それによって〈試作 → 形状に不満 → 理由:ふくらみがなく扇のように見える → 解決策:以前の作品の蛇腹を応用〉というプロセスを読者が追体験することができる。そして子供といっしょに順を追って作ることで、まだ説明を理解するのが難しい子どもでも、よりよい作品になっていくことを体感することができる。


左から二枚貝その1,その2,その3を開いたもの

三つの二枚貝を広げて折り線を比べると、いろいろなことがわかる。どれも直行する折り線でほぼ構成され、特別に難しい技法を使っているわけではない。基本は紙を均等に32等分して折るということで、工夫といえば蝶番の部分の折り方だろうが、これは1から3に共通している。ダンゴムシの応用によって襞を蛇腹にするのも、折り線を二重にするだけだから難しいことをやっているわけではない。ところが正方形の辺と平行に折るか(その2)、対角線と平行に折るか(その3)でも、出来上がりにこれだけの差が出るのだ。津田氏は、おりがみは対象物の特徴を単純化するものだが、単純化した形を見ているとイメージに近づけるために改良したくなる、それが創作には大事なのだ、という。

現在活躍する有名なおりがみ作家の多くは理系で、とりわけ数学・物理出身者が多い。おりがみの幾何学的特性からいえば当然である。しかし前回紹介したコアラの作者桃谷好英氏は植物学者であり、津田氏は農学部を出て農学博士、さらに医学博士を取得した昆虫生態学の専門家で、感染症と蚊の関係を特に研究されたそうだ。つまりお二人とも常に自然に触れ、自然の中の動植物の具体的なイメージを持っているので、それが作品のあたたかみ、生命力を生み出している点に私は惹かれたらしい。二枚貝に応用したダンゴムシについてはこう書かれている。

この作品は、ある朝、日かげの湿気のあるところにすわりこんでいたとき、「こんなところならダンゴムシがいるかなァ」とおもったとたん頭に浮かんだものです。

『創作折り紙をつくる』20ページ

津田氏の作品はどれも対象となる生き物への愛情が感じられる。「あとがき」では、おりがみは単に紙を折る技術ではない、といい、次のように述べられている。

創作するときには、何かある作品をつくりたいという気持ちがあり、その創作の対象となるものには、あたたかさ、さびしさ、かわいらしさ、たくましさなどの表現したい何かしらの感じがあるものです。(…)このように折り紙の表面にあらわれず心にふれてくる部分を、折り紙の ”心” と呼んでみました。
 折り紙が古くから伝えられてきた理由のひとつには、この ”心” があったからなのかもしれません。(…)折り紙でもっとも大切なのは、むずかしい作品を折れることでも、また多くの作品の折り方を知っていることでもなく、この折り紙の ”心” をしっかりとつかんでいることではないでしょうか。

同「あとがき」より

おりがみの技法を理論化、数値化することの意味は大きい。それまでは偶然や個人の名人芸に過ぎなかったものが、誰もが楽しめる共有財産となり、さらなる発展のためのステップとなるからだ。しかし理論家なら独創的な作品を作れるというわけではない。独創的な作品を生み出すためにはやはり直感や感受性が必要だ。おりがみはまだ理論を扱えない年齢の子どもの感性も刺戟し、理論が扱えるようになったときにはその感性と抽象的な分析が融合する、奥深い世界だ。なにも知育だの創造力教育だのといった大業なことを言いたいわけではない。ある年齢まででおりがみをやめてしまっても、そのときの体験は別の活動に影響を与えるだろうし、夢中になって楽しむ時間を過ごせたなら、それ自体で無上の価値がある。折り手数が百を超える難易度の高い折り紙も、小さな子が夢中になって作る簡単な折り紙も、どちらも豊かなおりがみという世界の一部なのだ。その世界で遊ぶ楽しみを十分味わうためには、我々を取り巻く自然の中に存在するさまざまな形に驚き、愛着を持つ感性が必要なのだ。おりがみを単なる高度な知的遊戯と捉えるには何か引っかかるものがあったのだが、我々を取り巻く自然と子どもたちとに対するあたたかい視線にあふれた津田氏の本は、それが何だったかを教えてくれた気がする。

よく考えてみれば高度な作品を生み出すおりがみ作家諸氏も、ふだんの活動としておりがみ教室などで子どもたちを相手にやさしいおりがみを指導しているのだろうし、おりがみがORIGAMIとして海外に知られるようになったのは高度な創作おりがみが生まれるよりもずっと前からの話で、海外でもやさしいおりがみの本は多く出ている。

左:アメリカで出たおりがみの本のフランス語訳
右:ドイツで出たおりがみの本

こんなことは家庭を持って子どもを育てる経験があれば、誰でもどこかの段階かで気づくことかもしれないが、今日までそういったことを経ずに来てしまったために迂闊にも思い当たらず、何かが引っ掛かったままだったのだ。結局問題は自分の生きかたに起因していたのである。

おりがみの起源論争なんてどうだっていい。一般に日本起源といわれているものを、実は我が国のほうが先なのに日本が剽窃した、といちいち証拠を捏造してあげつらうのは滑稽を通り越して哀れな行為だとは思うが、それは自国の古い文化に誇るべきものがないという劣等感の裏返しに過ぎないのだから、相手にする必要はない。それでもまだからんできたら、「日本で生まれたのかよそから来たのか知りませんけど、昔から日本で親しまれ今も進化し続ける、みんなが楽しめるすばらしい文化ですが、何か?」とニッコリ笑って答えればいいのである。人生は短い。残り時間が貴重だと思うなら、まともに育たなかった歪んだ精神に目くじらを立てるのにそれを使うより、これからのびやかに育っていくであろう子どもたちの精神と笑顔のために使ったほうがいいに決まっている。

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実は今回おりがみについて書く気になったのは、津田良夫氏が今年2024年1月30日に享年70歳で逝去されたことをたまたま知ったからだ。津田氏の名前とともにあの二枚貝と、これまでに自分がおりがみに費やした時間がよみがえってきたので、おりがみについて何か書くことで津田氏への追悼としたかったのである。


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津田良夫さま

あなたが子どもたちのために蒔いた種は確実に芽を出し、育っていると思います。
あなたが考えた美しいフォルムの二枚貝をぼくが作って見せると、子どもたちは目を輝かせ、手渡すとまるで小さな生き物を包むようにそっと手のひらに乗せて見つめます。
あなたとお会いする機会は持てませんでしたが、ぼくも人生折り返し、遠からずそちらに伺います。そのときにはぜひお話しさせてください。vale.


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