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萩原利久×八木勇征が魅せた、至上の恋

昨年秋に放送されるや、深夜帯にもかかわらず熱狂的なファンを生み出したドラマ『美しい彼』。なぜ私たちはこの物語にこんなにも虜になるのか。その魅力を解説する。

少年は、神様に恋をした。

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この物語には、ふたりの主人公がいる。ひとり目は、“ぼっち”の高校生・平良一成(萩原利久)。吃音症を抱える平良は、人とうまくコミュニケーションができない。クラスカーストは常に最底辺。友達なんてひとりもいなかった。

そんな平良が恋したのが、孤高のキング・清居奏(八木勇征)。清居は、優しい人間ではない。平良をパシリとして扱うし、態度は冷淡だ。だけど、清居は決して平良の吃音を嗤わない。何より蔑むように平良を見る目は美しく、強烈な引力を持っている。やがて平良は清居に支配されることに震えるような高鳴りを覚える。「キモい」という侮蔑の言葉も、清居の口からこぼれれば、詩となり媚薬となる。

平良の心理を、理解不能と言う人もいるだろう。だけど、圧倒的なものに打ちのめされる歓びには、抗えない。平良は、神様に恋をしたのだ。

神様は、愛がほしかった。

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『美しい彼』は、神様に信仰を捧げる平良の視点から進んでいく。だけど、これは決して狂信者のためだけの物語ではない。清居の胸の内が明らかとなったとき、私たちの心はふたりの生み出す波にさらわれ、もう岸辺には戻れなくなる。これは、愛がほしかった神様の物語なのだ。

清居は、ずっと愛に飢えていた。誰かに自分だけを見てほしかった。この物語のもうひとりの主人公は、清居奏。彼は、完全無欠な神様じゃない。寂しがり屋で、傷つきやすい、孤独な男の子だった。

人を突き放すような冷酷な眼差しも、強がりというレンズを外せば、途端に臆病になる。瞳は激しく揺れ、溢れる想いで幼子のように濡れる。そのアンバランスさが、くるおしい。不完全な平良と、不完全な清居がひとつになったとき、世界は完成する。その恋を、私たちは至上と呼ぶのだ。

平良と清居がいれば、そこはふたりだけの王国になる。

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自転車をふたり乗りした夏草の河川敷。ロッキングチェアが玉座みたいだった縁側。何気ないふたりの日常を『美しい彼』は、淡く、眩しく描いていく。

中でも、今も鮮やかに残るのは、ホースで水を掛け合うシーンだ。王様は、おふざけのように僕(しもべ)に水を浴びせる。その顔が、同級生の誰にも見せたことないイタズラ少年のようで、刺すようなときめきが胸を貫く。

「キモい」と言われてうれしそうに恥じる平良。ふたりの交わす会話は、ふたりにしかわからない暗号みたいだ。でもそれでいい。それを見ているだけで、恍惚に似た幸福が全身に広がる。つるされたゼッケンがパレードのようで、ずぶ濡れになって戯れるふたりに祝祭感すら覚える。

監督は、酒井麻衣。脚本は、坪田文。凪良ゆうの原作をよく理解したスタッフ陣が『美しい彼』をこの世界に現出させた。

平良と清居は、萩原利久と八木勇征しか考えられない。

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そして、凪良ゆうの紡ぐ純度の高い文体の中で生きてきた平良と清居に肉体を与えたのが、萩原利久と八木勇征だ。

平凡だけど、独特の雰囲気を持った平良は、数々の作品で印象深い存在感を示してきた演技派・萩原利久だから演じられるキャラクター。特に、清居を侮辱する同級生たちに反抗の牙を剥いたときの目は、狂信者そのもの。王に仕える僕(しもべ)の忠誠心と狂気を萩原利久はその瞳で物語った。

一方、『美しい彼』という題名に絶対的な説得力をもたらしたのが、八木勇征だ。テレビドラマ初出演。思わず「清居を演じるために生まれてきた」と大仰な惹句をつけたくなるほど、八木勇征の演じた清居は完璧だった。

平良と清居は、萩原利久と八木勇征しか考えられない。「if」が無用のキャスティングが、さらなる熱狂を生み出した。

Text/横川良明

横川良明(よこがわ・よしあき)
1983年生まれ。大阪府出身。ドラマ・演劇・映画を中心にインタビューやコラムなどを手がける。著書に、『役者たちの現在地』(KADOKAWA)、『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』(サンマーク出版)がある。Twitter:@fudge_2002


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