6月14日のセッションの振り返り

僕のとある特性について。その長所的使い方と短所的使い方を1つずつ。あと短所的使い方の極端な実例。最後に振り返ってみての感想。さあれっつごー!

とある特性について

こう、僕は、自分の世界と呼ばれる世界に外の世界を取り込むのがうまくて、それでよいことと悪いことが起きている。あ、この良い悪いは僕のメンタルを心地良い状態で安定させることに対しての、良い悪い。

近辺の外の世界も自分の世界と思っていることにより、自分の世界に視点がいくつもある。多様な価値観によっている視点達に慣れているおかげで、物事や自分を冷静に第三者の視点で客観的に評価することが多い。

長所的使い方

例えば、小学生低学年だか幼稚園くらいのころ、家族と大きい公園に遊びにいって迷子になったことがある。両親を探しても見つからない焦りの中、考えていたのは「あー、今迷子だわ。迷子センターに行かないと。スタッフさんも探そう」だった。今までこの経験は「まあどちらかというと珍しいかな、でもよく考えることだよね皆」と思っていた。しかし今回のセッションで、極めて稀な例であることを知った。というよりコーチは、その年代くらいの頃は迷子センターなんて意識してなかったらしい。

僕はよく案内放送で流れるから、迷子センターやそれに類するもの、まあ無くてもスタッフさんに放送で探してもらえることくらいは把握してたけど、それもまた珍しいらしい。我ながらすごいこと、なんだって。照れるね。というよりしっくり来ないね。なんだろ、できて当然のこと過ぎて、褒められてもよくわかんない。本当に稀なのかなあ。てかコーチよ、迷子=死だったのは短絡的過ぎでは、ここはジャングルの奥地ではないぞ。

この例からわかる通り、普段から迷子案内の放送を耳にして、情報として処理、蓄積していて、自身にそれを適用することができる。つまり、放送で耳に届いた外界の情報を、自分ごととして処理しているってことだね。近辺の外界を自分の世界と切り離していると、そもそも耳に入っても流してしまうのだろう。これらは、この特性の良い面。

短所的使い方

じゃあ悪い面はというと、起きてもいない悪いことを起きているかのように誤認してしまうことかな。例えば、我が家の父親は、世間一般の頑固親父の逆を行く人だ。ここで頑固親父=すぐ怒鳴る、としよう。僕の父親は頑固親父でないので、すぐ怒鳴ることはしない。これが、いわゆる現実。しかし僕は、外の世界の情報である「世の中には頑固親父という人がいる。その人はすぐ怒鳴る。」という情報を仕入れ、「頑固親父は怖そうだ。しかも、世の中の父親の多くはそうらしい」と予想をつけ、「僕の父親も頑固親父だったら怖いな。確率的に半分以上は怖いのでは?」となる。

そして現実(僕の父親はすぐ怒鳴ることはしない)を見ず、架空(僕の父親はすぐ怒鳴って怖い)を見る。架空を見るとどうなるかというと、「父親に怒鳴られた過去の思い出はほとんど無いのに、まるでしょっちゅう怒鳴られているかのような感覚を覚え、相対すると恐怖が湧き出るのを感じる」となる。

つまりね、外界の情報を仕入れて、それを自己の世界に上手に上手に取り込んだ結果、現実を見ず架空を見てるんだ。これが僕の特性の短所的使い方。
まあ特性というのは長所的に使うこともできれば、短所的に使うこともできる。意味付け次第だからね。

短所の極まった例

そんで、この短所的使い方の極端な例がある。他人軸の人生、自分軸の人生という言葉をコーチはよく使うけど、これは言わば「超人軸の人生」だ。外の情報から「超人」を作り出し、常に自己と比較して生きていること。

僕はよく「遊びたいけど、何をして遊びたいかがわからない」「絵を描いて遊んだのに、遊んでいない気がする、何かしないといけない気がする」という状態に陥ることがよくあった。他にも「一昨日は何もせずに、何もしていないという後悔にまみれた日だった。しかし今振り返ると、仮に何をしていても、その後悔が埋まることはないと思える」ということも多々あった。これは超人が隣にいて比較していることに由来すると考えられる。

思考の流れとしては、絵を描く→隣で超人が健康的な肉体のために運動している→絵を描いている場合じゃない!でも絵を描いていると楽しい……。楽しいから、今超人さんがしているような、より良い行動をしていないんだ、サボっているんだ。僕はダメなやつだ……。

他のパターンとしては、ピアノを弾いている→隣で超人が健全な精神のために絵を描いている→僕も絵を描いていみる、でもピアノ弾くの楽しかったのになあ。なんでやめたんだろう。あ、超人さんが教養を深めるために専門書を読んでいる。読みつつわかりやすい図解描いている。さらに心地良い音楽をかけて、お香をたいて、ついでにスタンディングデスクだ。やっぱりあれくらいできないとなあ。あれくらいできて普通だよなあ。僕はなんてダメなやつなんだ……。

お分かりですね。僕はこの超人さんを超人だと認識せず、「普通の」「一般的で」「平均的な」人だと思っています。いやそいつ人間超えているから。僕は人間だから。ていうかそんなやつ実在しないから。

コーチからの例えでは、たとえばキャッチボールで遊んでいるときに、隣でスーパープレイヤーなプロ野球の伝説級の人?が剛速球で次元の違うキャッチボールをしている感じ、です。仮に僕が「僕も次元を超えたキャッチボールしたい!」と思っていたら、隣に真似すべき人が実践していてラッキーですが、そうじゃなかったら、なんかもう、楽しくない。僕が的外れなとこに投げて「ごめーん!」って相手と笑いあっているときに、隣でそんなことされちゃあ、なんかもう、笑えない。ただただ自分のできなさを突き付けられるだけ。分かりやす例えですな。

数多くの外界の情報を取り込めるが故に、数多くの側面から見て素晴らしい人間を架空に作りだし、そいつと自分をひたすら比較しています。僕の特性の短所的使い方ここに極まれりって感じですね。

というわけで、前回のセッションでは、超人と比べていることをよくしていること、もし気がついたら、「ちーっす、じゃ、おつかりーっすっ」って言って離れること。架空を見て比較するのでなく、今現実の自分が楽しんでいることに意識を持っていくことを増やそう、となりました。

振り返っての振り返り

ところで、今回この振り返りを書いていて、色々思うところがあるね。てか父親がもはや可哀想。滅多に怒鳴ってないのに、まるでしょっちゅう怒鳴っているかのような怖がられかたをしている。まあ、怖い要因は他にもあるけども、そこはフォローできないけども。

あと、超人との比較な。いやもう無理だから。なんで絵を描きつつランニングしている人と比較するかな、自分。自分がツッコミどころだらけでもはや笑えもしない。あー、超人と比較しているから、だから大概の思い出が「もっと何かやれたはず!」という焦りと共に浮ぶのに、具体的な後悔の内容はでてこないんだな。その何か、が何かわかっていないんだから。

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