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ボトルメッセージって照れるね

拝啓 ただ一人のあなたへ

noteを書き始めてみようと感じた、あなたのnoteがあった。やさしく丁寧にカドをとって、丸みをおびて、でもそのかたちそのものは変わらない、響く繊細なあなたの言葉があった。
エッセイや小説を書くあなたは、文章に救われているという。自分で書いて、他者のも読むことが、自分への救いになっていると。ああでもこの表現はちょっと違うかもしれない。だってあなたは、未来のあなたへも届けようとしている。僕と少し似てるね。

noteを見るきっかけとなった友人がいる。日記ならたくさん、我ながらたくさん書いてきたけれど、それでノート代くらいお金を稼げないかと悩んでいた。すぐお金に走るのが僕の悪いところだ。
その友人は、ライターとか、第二の枕草子とかあげてくれて、最後には、noteを紹介してくれた。元々noteは知っていたけれど、情報商材のイメージが強くて、日記(エッセイ?)もあると知ったのはその時が始めてだった。教えてくれて、ありがとう。

日記はとにかく自分のために書いていた。でも先述したnoteのとある方の記事を読んで、他人の誰かへ届く文も書きたく、なってしまった。想定外だ。あなたは自分の文章が誰かの心に跡を残すといい、と述べられていた。跡どころか、それより深い影響を受けている気がする。

その人を見つけたのは本当に偶然だった。友人に見栄を張った手前、とりあえず書くか、でもブログとか4回続けようとして、毎回失敗してきたしなとか考えて、まず検索してみた。「note 100記事」うむ、いくつかヒット。では200記事ならどうだろう。おおあった。都合のいいことに気にかかっていた、毎日更新するか、ということも話題になっている。読み進めた。日光浴のためベランダで読んでいたのが、記憶の光景からわかる。天気のいい日だった。てか今日だ。昨日友人と話して今朝その投稿を見つけて、今仕上げている。
生来の飽き性、ではなく多趣味により、やりたいことへのフットワークは軽い方だが、それにしてもはやい。多分その方の投稿が、楽しいことも苦しいことも言葉にされていて、どことなく近さを覚えたのだろう。近いというのは、同じ体験をしてきたという意味ではなくて、うまく言えないけれど、強い感情を生み出す出来事またはその心情をひたすら書き出してきた僕にとって、その人は近い。一方的な感覚に過ぎないのだけれども。

日記ならこの一年で144万文字書いてきた。これはちょっとした僕の自慢だ。144万の足跡があると思うと、直近一年分は、まあ生きてきたと思える。どことなく、嬉しいような、安心するような。
自分のための144万文字に対して、他者への文字はどれくらいの数になるだろう。どれくらい。僕の足跡になって、どれくらい、僕の生を実感させてくれるのだろう。楽しみにしている。

もしあなたがこの手紙を見つけてくれたら、とても嬉しく思う。

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