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【短編小説】最高の接客①

 誰だったっけ。
 さっきから考えているのに思い出せない。頭の中がむず痒い。手を入れて掻きたい。または、記憶をつかみ出したい。
 秋は、カートを押してレジへ向かう間もずっと考えていた。午後9時半のドラッグストア。食器用洗剤が切れて、慌てて駆け込んだ。閉店まであと30分の店内は、思っていたより客が多い。

 その中のひとりに、見覚えがあった。秋よりは少し年上に見える女性。30代後半くらいだろう。男の子が一緒で、こちらは小学校3、4年といったところか。
 近所の奥さん? 子どもの幼稚園か習い事の教室で会うママ? どれも違う。すごく親しいわけじゃない、でも嫌いな感じじゃない人。

 あ。秋はレジの手前で立ち止まった。後ろで誰かが舌打ちをする。振り返ると、恐い顔をした中年女性がいた。急いで進路をゆずる。小山のようなカートが、秋を押しのけてレジへと進む。秋はその場でハンドクリームのコーナーを見るふりをしながら、そうだそうだと頷く。
 あの人。コーヒーヒーショップの店員さんだ。

 都会の駅ビルやショッピングモールには大抵ある、新作のフラペチーノが発売になるたび話題になるあのコーヒーショップ。秋が住むまちにオープンしたのは一昨年のことだ。それまでは、車で二時間近くもかかる県庁所在地まで行かないと話題のフラペチーノは飲めなかった。秋は嬉しかったし、まちの人たちもそうだったのだろう。開店から今に至るまで、ショッピングモールの中にあるその店にはいつも長い行列ができている。

 けれどさすがは人気のコーヒーショップ。いつ行っても、評判通りの完璧な接客だ。どれだけ長蛇の列でも、呪文のような長いオーダーを受けていても、はきはきと明るく対応してくれる。爽やかな笑みでホイップクリームをくるくるとしぼり、ドリンクを差し出してくれる。

 彼女もそうだった。
「お待たせいたしました。こんにちは」
 こんにちは、は、秋の娘たちにかけてくれた言葉だった。4歳と5歳のふたりは、長い順番待ちに退屈して、大声を出したり床に寝転んだりしていたものだから、秋はとても恥ずかしかった。子ザルみたいな子どもたちに声をかけてもらい、縮こまっていた肩がほっと緩んだ。この店員さんにもきっと、子どもがいるんだろう。自然な笑顔にそう思った。

 首の後ろできっちりと束ねた髪。緑のエプロンからのぞくシャツの襟は真っ白で、きれいにアイロンがかかっている。BGMに溶け込むようなゆったりとした口調、穏やかな笑みを浮かべながらも、手は素早くトレイを用意し、レジを操作している。

 すてき。カッコいい。秋はぼうっと見惚れながら会計をすませた。ごゆっくりお過ごしください、とレシートを渡された時は、優しい声にちょっと泣きそうになった。
 いつか、私も。あんなふうになれるかな。
 秋はドリンクを受け取って席に着き、子どもたちにジュースを飲ませながらぼんやりと考えた。

 今は怒ってばっかり、焦ってばっかりの毎日だけれど。
 子ザル姉妹がどちらも小学校に上がり、もっと聞き分けがよくなったら。私にも余裕ができて、やるべきことよりやりたいことが考えられる毎日になったら。
 こんなふうに、てきぱきとカッコよく働くお母さんになれるかな。なりたいな。

 ぽっと胸に灯ったその希望は、その後も秋のなかで小さく光り続けた。子どもたちが幼稚園に行っているあいだ、ひとりでこっそりご褒美フラペチーノを飲みに行った時も彼女の姿を見つけてじっくり観察し、憧れの光を絶やさないようにした。

 それなのに。その憧れの彼女が、わからなかったなんて。
 白々と明るいドラッグストアの照明のせいか。目に入る雑多な日用品のせいなのか。それとも、あのコーヒーショップには、何でも素敵に見える魔法がかかっているのか。   

 さっき見た彼女は、ほつれた髪が横顔にかかっていた。シャツにもシワがあった。その上に着ていたフリースの上着も、何だかふつうっぽかった。

 そう、ふつう。すごくだらしないとか荒んで見えるとか、そういうことではなく、毎日忙しく働いているごく一般的なお母さんの姿。

 がっかりした。と、思う自分に、秋はがっかりしていた。いつもそうだ、私は。
 いいな、すてきだな。そう思ったものでもすぐ飽きる。ぬいぐるみ、アイドルの写真集、ボアブーツ。歌手、パティシエ、メイクアップアーティスト。かつてお気に入りだったものや、憧れだった職業が、脳裏に現れては消える。「秋のアキは飽きっぽいのアキ」。口の悪い兄にいつもそうからかわれていた。[続く]


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