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奇跡

 最近、耳鳴りがするようになった。同時に耳に水が入ったように自分の声がくぐもるようになったので、忙しい合間に休みをとって美季は病院に行くことにした。
この歳で外耳炎になるなんて面倒だなあ。美季が思ったのはそれくらいのことだった。 
 美季は数年前に、岐阜の山深い街から東京に出てきた。今はブックデザイナーの仕事で生計を立てている。
 ブックデザイナーの仕事は、美季がずっと夢見ていたものだった。岐阜にいるときに通信でデザインを学んだが、仕事を見つけることができなかった。今流行りのクラウドワーカーのマッチングサイトでデザイナーとして出品し、細々と受注しながら過ごしていたのだが、このままでは埒があかないと思い切って上京したのである。
 美季の決断は正解だった。フットワークが軽くなったおかげで、美季の想像以上に受注が舞い込み、上京して半年が経つころには、美季の事務所はちょっとした行列ができるほどになっていた。
「脳に膿が溜まっていますね」
 一通りの検査を受けたあと、医師から告げられたのはそんな一言だった。
 この状態で、よく気を失ったりしませんでしたねと言われ、ぼんやりと思い出す。この数日、軽い食事を取った後には起きていられないほどの眠気に襲われて、倒れ込むようにして眠ってしまう日々が続いていたこと。
「血糖値の問題かと思っていたんですけれど」
 美季がそう申告すると、医師は一言、ああ、もう症状が出ていたんですねと言った。
 とりあえず様子を見ましょうと、抗生物質を処方されて家に帰ることにする。病名はと聞くと、それはまだはっきりしませんと言われる。帰り道、携帯で脳に膿がたまる症状について調べてみると、錚々たる病名が羅列されていた。
「近々旅行でも行くの?」
 迎えた翌週の月曜日、唐突にそう聞いてきたのは、仕事仲間の笑美子だった。
 笑美子とはもう三年の付き合いになる。フリーランスの交流会で意気投合し、こうして定期的に会う仲だ。この日も「青山にいいカフェができたから行こう」と誘われてランチに来ていた。お互い独り身ということもあって、笑美子の存在は美季にとってかなりありがたいものだった。
「え?そんな予定はないけど、どうかした?」

 笑美子はサイキックの能力があるらしく、たまに突拍子もないことを言い出すことがあった。美季も最初は気にも止めていなかったが、自分しか知らないようなことまで当てられることが続き、今では一目置いている。
「あんたが帰ってこなくて、にゃあちゃんが独りで家に閉じ込められてるところが浮かんだから」
 パンを割いていた美季の手が止まる。
「動物病院みたいなところでゲージに入れられてるの。だから、旅行にでも行くのかと思って」
「……いや、今のところその予定はないかな」
美季は絞り出すようにそう言うと、ちぎったパンを口に放り込んだ。
 それから数日経っても、美季の耳は相変わらずだ。水の中にいるような感じで、外の世界の音がくぐもって聞こえる。痛みはないが、綿棒を耳に入れてみると確かに黄色い膿が綿棒に染みてくる。全部耳から出てくれたらいいのにと思うけれど、そううまくは行かないらしい。
 検査結果が出たというので、美季は病院に呼ばれた。医師はパソコンに美季の脳内の映像を映し出した。
「CTの結果ですが、脳内に気になる影が見えます。もしかすると悪性の腫瘍かもしれませんから、大きな病院で検査を受けてください」
 青天の霹靂とはこのことか、と思いながら、美季は淡々と話す医師の言葉を聞いていた。悪性腫瘍だったとしたら…と医師は事務的に、その後の一般的な治療法を説明する。
「ちなみに悪性だったとしたら、生存率ってどれくらいなんです?」
一通り説明を聞いた後、美季は尋ねた。
「平均寿命は8ヶ月から1年半というところです」
中には5年以上生存しているというデータもありますが、と医師はまた淡々と付け加えた。
 病院を出ると、秋晴れの雲ひとつない空が広がっていた。昨日は相当肌寒かったのに、今日は一変して汗ばむくらいの陽気だった。しかしその暑さも、夕暮れ時を迎えて落ち着いていた。
 駅からは海が見える。時折り海の方から吹いてくる風には、潮の匂いと咲き始めたキンモクセイの匂いが混じっていた。美季はキオスクでコーヒーとドーナツを買い、電車が来るのを待ちながらそれらを食べることにした。
 思ったより短いな、というのが、現時点での率直な感想だった。突然の余命宣告のようなものに、ショックを受けるよりもまだ驚きの方が勝る。冷静なのは、まだ確定ではないからだろうか。さっきの話が自分のことだとは、まだ思えなかった。
 とはいっても腫瘍があることは確かなのだから、どちらにせよ手術は必要なのだろうか。手術したとして、治るものなのだろうか。ドーナツを食べながら取り止めもなく考える。考えながら、ふと我に返って美季は苦笑した。
「こんなときでもお腹が空くんだもんなあ」
 人って結構強いよねえ。今は家でぬくぬくと眠っているだろうにゃあに、心の中で話しかける。いや、弱いのかもしれない。現実から目を背けているだけかも。にゃあならどうする?問うてみても、もちろんにゃあからの返事はない。
 口の中で溶けきったドーナツをようやく飲み込んだ後、美季はドーナツの袋を丸める手に力を込めた。それは、突然降ってわいてきたこの現実を受け止めるために必要な助走だった。
 帰ったら、仕事の引き継ぎを頼める人を探さなければ。もし万が一のとき、誰も困らないように資料にまとめておかなきゃね。日記もとりあえず捨てよう。いろいろなことを脳内のto doリストにピックアップしていく。そんなことを考えていると、なぜか少しだけ力が湧いた。
 にゃあのことは笑美子に頼めるだろうか。にゃあが一生ちゃんと暮らせるだけのお金を用意しておかなきゃ、そう思ったところで、出会ったばかりの小さかったにゃあを思い出し、堪えきれずうつむく。
 こんなふうににゃあとの別れが来るとは思っていなかった。最後まで一緒にいられないかもしれないなんて、美季は今まで一度も考えたことがなかった。
 濡れてしまった手帳をハンカチで拭いて一通り必要なことを書きつけたあと、美季は一息ついて空を見上げた。さっきまで青一色だった空には、鮮やかなピンクの夕暮れが広がっている。駅の向こうには、建設中の大型マンションが見えた。
 すでに今日の工事は終わっているらしく、建設中の金属群が無言でそびえ立っていた。
 あのマンションが建ち終わったら、また次のマンションの建築がこの街のどこかで始まるのだろう。土地が足りなくなったら山を削って、古い家を取り壊して、まるで新陳代謝のように破壊と創造が永遠に続いていくのだろう。
 この世界は、死なないことを前提に作られている。建ちかけのビル群を眺めながら美季は思う。
 死んだらこの世界からは消え去らざるを得ず、今存在している形でとどまることは許されない。
今こうして食べているドーナツも、この世から去ってしまったら触れることすらできなくなる。大切な人からは、自分の存在は見えなくなる。どんなに叫んでも美季の声はきっと届かない。それでもなんとかしてこの世に止まろうものなら、異形のものとして恐れられ、怯えられて、去ってくれるようにと懇願さえされてしまう。
 生きていないものは、この世界にとどまることが許されない。そんな当たり前のことに今更気がついた。これからも変わりなく続いていくと思っていた日常は、「生きている」という、こんなにも不安定な状態に担保されていたのだ。そう、みんな生きている、ただその一点だけが、この世界を構成する私たちに共通している。その前提を失ったときにだけ、この世界の構成員ではいられらくなる。どんなに願おうが、望もうが。
 美季は手帳を閉じ、やがて来る電車に乗るために立ち上がった。遮断機が降りる音が遠くから聴こえていた。
 

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