体癖と心理学…そして方便へ
こんにちは。Huiziです。
前の記事から随分と時間が空きましたが、最近ずっと考えていた、体癖と心理学…そして方便に続く(かも?)というお話について書きたいと思います。(遠大で私には畏れ多いのですけれど、思い切って。)
振り返り
私が名越式性格分類講座(体癖)に定期的に通うようになったのが、確か2014年1月からだったので(今は講座に通う事は少しお休みしていますが)、講座に通い出して約8年!!!実はさらに前に、医療従事者向けの医学書院さんで行われた体癖を含めた心理学講座にも、看護師の友人と一緒ということを口実にこっそり潜って(笑)いたので、ちゃんと出会いからというと多分10年以上かも!!!その割に一度も体癖を掴めた、確信を持ったなどと思えたことはないのですが、それもまた体癖の深さを示しているように思います。
そもそもこのnoteをはじめたのは、学びが遅い私だからこそ、じっくりゆっくり取り組んだ私なりに思う体癖の様々な側面をお伝えすることにより、例えば○種について私にはこんな風にみえたよ、こんな素敵なエピソードがあったよ、体癖ってこんなに面白いよ、となんとなくお伝えできれば面白いかなぁと思って、私にしてはかなり思い切って始めたのですが、蓋を開けてみれば、なぜ体癖を学ぶのか?体癖との付き合い方とは?いい面だけなの?など、体癖の各論というよりは、私なりの「前提」への態度ばかりをお話していますがそれはそれということで、少しでもご興味がある方はお付き合いいただければと思います。
もちろん、個人の見解で偏った態度・見方ですので、こんな風に感じる人もいるんだなぁくらいで読んでいただければ嬉しいです。
部屋にはノックしてから入るという礼儀
最近、心理学に興味がありそこからたまたま体癖を知るに至った友人と沢山お話することがあり、いわゆる体癖に興味がすごくあり、体癖にどっぷりじゃない方からの率直な感想に触れることがありました。
その中で印象的だったのが、体癖を学んでいる人の間で話される、「あの人って何種かな?」が悪口に聞こえる、と言われたことでした。
それで私がはっと思い出したのが、Twitterで村上春樹さんのbotが投稿していたことで、要約すると村上春樹さんはフロイトの精神分析が嫌いだと。精神分析はノックもしないで部屋に入ってきて冷蔵庫を勝手にあけて帰っていく感じする。帰っちゃってから、おいおい、あいついったいなんだ、ということになると。この感覚に少し似ているのかなぁと思いました。(もちろんフロイトの精神分析は、分析される方の合意を得てからなされますが。)
アドラー心理学の野田俊作先生の本にも、正確な言葉は忘れてしまいましたが、現実生活で困っていなければ、分析をする必要はないと仰っていたと思います。例えば、これが「あの人O型っぽいよね?」とか「あの人は蟹座かなぁ。」だったらさほど悪口に聞こえないのかなぁとも思ったり。…ここは微妙ですけれど。
ざっくり言うと、体癖はやはり身体からきているので、その人の無意識をみてしまうことになりある意味分析的で、鋭く攻撃的に聞こえることもあるのかなぁと思いました。
確かに、必要のない人にとって分析は、ノックせずに勝手に個人の部屋に入って冷蔵庫を開けて帰ってしまうくらい余計なお世話ですし、いくら体癖や心理学を勉強しているからといって、本質的で鋭すぎる分、相手が望んでいなければ(相談の場面や相手がピンチの場合、体癖や心理学の話題じゃない場面では)乱用するのは、相手の無意識を傷つけることもあるかも、本当に気をつけなければなぁとはっとした出来事でした。
もちろん、体癖や心理学の勉強の場はそういう話をすることが目的の場ですので、どんどんすべきだと思いますが、10年以上体癖を学び体癖とともに生活していたので、あたらめてはっとさせられた出来事でした。
経験しなければ分からない
また違うエピソードです。同じ友人からなのですが、私が体癖が役立った例として、「ある人にプライベートなのに仕事のように毎回すごく合理的にバッサリ切られてしまい、今まで傷ついていたけれど、体癖を知ってから、○種っぽいなぁって思って面白がれるようになったよ。」と話したところ、友人は「いや、例えそれが〇種の特徴だとしても私は腹が立つし、許せない。」とバッサリ言われました。そうか、確かに体癖を知ることにより、「その人への捉え方を変えられるか」については個人差があるのかもしれないなと思ったのですが、一部もしかしたらそうじゃないかもなぁとも。たぶん友人と私が根本的に違うのは、それを「経験しているしていないか」なのかなぁと思いました。友人はまだご自分の体癖をこれだと確信を持っていない段階で、また今のところ特段人間関係で困っていないので、体癖を通して人間をみて、問題を解決するという経験をされていないのでした。
まずは体癖を知ること自体は面白いですが、体癖を使うというか実生活に生かせるかは自分で経験しなくては分からないことで、それを経験していない方に伝えることの難しさを実感した体験でした。
体癖と心理学(無意識)~体癖は「好き・嫌い」「投影」「過去の体験」とくっつきやすい~
これは、自戒の念を込めてなのですが、私のエピソードを書かせていただきたいと思います。
大学時代に数ヶ月、授業と寝食そして自由時間までずっとクラスメイト達と一緒にし、同じ寮(2人部屋)に暮らすという生活をしたことがあったのですが、その中でルームメイトとのトラブルに巻き込まれたことがありました。
自分をけして棚に上げる訳ではないのですが、9割くらいはそのルームメイトに非があり、1割は私がある意味甘やかしそれを助長させたなぁという印象でした。
同じトラブルに巻き込まれた別の友人がおり、その方が8種だったのですが、そのトラブルに対する対応で、私とその友人が真っ二つに割れ、トラブル自体よりその方針の差異が実際はしこりになりました。
ざっくり言うと、私は(私の正義感から)ルームメイトの問題行動を許す。友人は(友人の正義感から)それを許さない。それが結局は平行線で、2人それぞれがそれぞれの正義を貫いて、なんとなくしこりを残した結果になりました。
私はずっと、友人が頑なで頑固で、許さないなんて(私の正義として)曲がったことだ、と思っていたのですが、社会人になりたまたまご飯を一緒することになり、その際に友人の体癖が8種だと知るに至り、私の中のしこりが氷解したのでした。
つまり、8種の正義感(私)VS8種の正義感(友人)だったのだなぁと。そこではじめて、言うなれば「正義感の強い8種」にも触れた感じがしましたし、その先の、8種という色眼鏡から見たわけじゃない「友人そのもの」にも触れられた感じがしました。だって、同じ8種でもこれだけ違うのですから。
それと少し遅れて投影も起こり、やっぱり8種は頑固で自分を曲げず扱いづらい。友人の周りの人も大変かもなぁと、余計な投影も起こったのでした。(この投影には最近気付きました。)
体癖という色眼鏡を通して誰か(自分も他人も)をみるとき、絶えずもう一枚以上色眼鏡があって、無意識としてある「好き嫌い」や「投影」、「個人の過去の体験」と体癖をくっつけてみていないか?本当に大丈夫?本当に?と最近は何回も問うようにしています。(それでもまだまだまだまだ不十分ですが。)
私はアドラー心理学も勉強させていただいていますが、心理学、ざっくり言うと(ひとまず自分の)無意識をみるということについてもなかなか難しく、自分がどんな場面でどんな人に投影しやすいか、どんな人が好きで嫌いか(苦手か)、どんな過去の体験を元に今も同じように行動してしまっているかについては、いくつかは意識化できていますが、もちろん全部できた訳ではありません。
でも、先ほど書かせていただいた8種の友人のエピソードについても、体癖という色眼鏡を通して、8種について「過去の体験」に影響を受けていることや、私は8種に投影が起こりやすいという事と知ることができました。
今の私の実感としては、体癖と心理学は絶えずセットで学んだ方がメリットが大きいのではないかなぁと思っています。
体癖という色眼鏡を通してなにかをみるとき、自分の無意識が自動的に立ち上がるので、そのくっつきやすい無意識の傾向や思い込みに気付きそれを意識化し、体癖と相互の思い込みに気づく、それをを繰り返すことが成長なのかなぁと今は思っています。
名越先生がよく、「今こういう先入観を持ってみるとあえて強烈に意識してみる」(言葉は正確じゃないかもしれませんが)と仰っていますが、絶えず、自分の無意識という色眼鏡を通してしか世界をみることはできないという事実を意識して、せめて後からかける色眼鏡である体癖という色眼鏡のかけはずしは、意識的にできるようにし、その先の相手又は自分をみることを忘れないようにしたい、学んだ体癖という枠にはまり思い込みだけを強化しないようにしよう、そんな風に思います。
そして、体癖という身体(無意識)からくる時に鋭い、毒にも薬にもなるものと共に生きるということは、それを生かして自分が成長すると決意し、それを他人のための方便に使うと決意して生きることかなと最近は思っています。
だいぶ遠大な話になってしまいましたが、最近ずっと考えていたことだったので書かせていただきました。