「優木せつ菜」という宗教

何よりも始めに言わせてもらうが、これは優木せつ菜を貶そうとしているわけではない。彼女の革新的な思想や姿勢に甚く感銘を受け、この記事を書こうと思った次第である。

さて、読者は優木せつ菜という女性を知っているだろうか。恐らくこんな記事を読んでいるのならば知っていると思う。ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会に登場するキャラクターで、イメージカラーはスカーレット、誕生日は8月8日。あらゆることに本気で打ち込む”本気系スクールアイドル”としてデビューした。そんな彼女の意気込みを約すと以下である。

誰もが『大好き』を叫べる世界にしたい。

これだけでは多少理解しがたいのは当然なので、掘り下げていきたいと思う。

『大好き』を叫ぶ

率直に問う。あなたの好きなことは何か。もし仮にこう聞かれたとき、あなたならどう返すだろう。アニメが好き、ゲームが好き、ギャンブルが好き。頭の中ではそう思っていても、現実として返す言葉はここにはない無難な言葉になるだろう。もしくは無難な言葉を返すため、副次的な好きを見つけて勉強している人もいるかもしれない。世間とのズレは恥ずかしいことで、忌むべき存在だと思いがちだ。
もしあなたが上に書いたような人間であるのなら、よくこの話を聞いて欲しい。もし自分の”恥ずかしい”と思う好きを相手にぶつけ、それで失敗した経験があるのなら、もっとよくこの話を聞いて欲しい。

優木せつ菜の話に戻そう。彼女はいわゆるオタク属性を持っており、アニメやゲーム、ライトノベルを愛しているため、身近に感じられるだろう。そんな彼女はスクールアイドルになり、誰もが自由に『大好き』を語り合うキラキラした優しい世界を目の当たりにした。そこでひそかな野望を抱いたのだ。誰もが大好きを叫べる世界を広げていきたい、と。

これは非常に合理的な理想論だ。好きを語ることは悪いことではない。
誰もが好きを抱き、それを分かち合うことができれば、世界はもっと輝くだろう。なら、どうしてそれを恥ずかしいと思うのだろう。なぜそれを隠そうとするのだろう。
答えは簡単。人間が、好きを否定し、拒絶し、蔑むからだ。

自分以外を拒絶し、何かを否定することは人間の極自然的な事象だと言える。全てを受け入れ、許容することは神のみできることで、否定せず認めることは人間にはできない偉大なことだと言える。だからこそ、優木せつ菜を教祖とした、優木せつ菜という宗教を考えることができる。

これは意識の問題ではあるが、全くの人間が簡単に成せることではない。長い時間と年月をかけ、耐え忍び、否定する他者すらも認め、「それでも自分だけは」と確固たる意志を持ち続けて大成する宗教だ。なんと、優木せつ菜の歌う曲にも””誰かが否定しても私だけは味方だから””とある。
この思想を世界に広げ、「いつか世界中を誰かの大好きで溢れさせたい」と思う優木せつ菜がいかに偉大な人物であるか分かるだろう。

あなたがこれを読み、「確かに」と思ったのであれば、あなたも立派な優木せつ菜教だ。世界を大好きで溢れさせるために、尽力するべきだ

『嫌い』という感情

もしあなたが人間ではなく、神であるなら無縁の話だろう。
だが人間であるなら、誰もが『嫌い』という感情を持ち合わせている
これは嘆かわしいことだ。人間が未完成である理由とも言える。
他者を否定することは条件反射とも言える無意識の現象で、言ってしまえば仕方のないことだ。

偉大なる優木せつ菜はこのことについて語っていない(もしくは私の知見が無いだけかもしれない)。だがここまでの話を冷静に考えれば分かるだろう。他者の嫌いは受け止め、自身の嫌いは必要ないものだ。

上にも書いたが、人間であるならば少なからず「嫌い」や「苦手」といった感情があるだろう。これは仕方のないことなのだ。しかしそれは、人間であるからだ。この優木せつ菜という宗教は、この感情を持ち合わせない。
嫌いという感情は無くなるべきで、世界は大好きのみで包まれるべきだ。

もし嫌いな人間ができた時、これを思い出してほしい。
相手は人間であるのだから、私たちからすれば考えられないような欠点と言える部分があるだろう。しかし、ここで私たちまで否定してはいけない
嫌いにも、好きで返せばいい。否定のスノーボールをする必要なんてないのだ。

『大好き』による否定

偉大なる優木せつ菜は劇中、大好きで大好きを否定してしまっていた。
これはいわゆる、””大好きの押し付け””というものだ。現代で言うなら丁度”キメハラ”というものに該当するだろうか。
大好きを強く主張するあまり、誰かの大好きに干渉してしまい、知らないうちに誰かを否定してしまっていた・・・・というものだ。非常に難解である。

これもまた、誰もがなりえることだろう。虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会は、多様性をテーマに、こういった身近な問題を取り上げている
非常に学びとなるためぜひオススメしたい。

劇中の話をもう少しすると、偉大なる優木せつ菜は、好きを主張するあまり同じスクールアイドル同好会のメンバーである中須かすみの好きを圧し潰してしまい、酷く落ち込んでいた。いわゆる「方向性の違い」というものだ。
これに関しては、主人公である高咲侑も「仕方のないこと」と片付けていて、実際そうだと感じる。

なら、どう考えるべきなのか。
少し複雑になってしまうので、まずは劇中の話から解決しよう。

単純に、「目標の設定が間違っている」に他ならない。実際に劇中でも解決したように、方向性が違って纏まらないなら、纏まらなくていいのだ。
優木せつ菜の「かっこいい」と、中須かすみの「かわいい」は両立できないもので、しかしグループとしてまとまるためには択一の問題であった。ここで乖離が生まれ同好会は解散となってしまったのだが、もう一度持ち直したのは、「グループではなく、個人でやればいい」というものだった。
そう、目標の設定が合っていなかったのだ。視点を変えればこんなにも簡単に解決する問題だったのに、明るく見える目標に、盲目的に走ってしまったがためにこういった押し付けが生まれてしまったのだ。

全員が、やりたいことをやればいい。自分を曲げる必要なんて無い。
これが、『大好き』を世界に溢れさせるということである。

さて、もう一つの問題である、現代で言うところの”キメハラ”だが、こちらの問題は簡単だ。

答えは「自分の常識は世界の常識ではないことを知る」である。
ハッキリ言ってこちらは好きの押し付けというより、常識が欠如しているだけである。「なんで見てないの?」と言われれば、「特に興味が無いから」でしかない。興味を持ってほしいのならば早口オタクしてほしいものだ。その熱意を受けて、「興味がわいてきたから / 語ってるのが楽しそうだから見るね!」となるわけである。なんと虹ヶ咲劇中でもその描写があった。

好きを語らずして、誰かの好きは生まれない。
好きを語るのは恥ずかしいことでも隠すことでもない。
好きは語るべきである。世界を大好きで溢れさせるために。



締めの挨拶

最後まで読んでいただいてありがとうございます。始めにも書きましたが、私の推しである優木せつ菜さんの思想について、非常に感銘を受けたといいますか、共感しましたので、この度どうせツイッターのヒョロワーしか読まないけど書かせていただきました。もし、あなたが関連から流れてきたのであれば「相当頭がイカレた奴がいるな」と思ったことでしょう。
色々書くと凄く怪しい宗教のようになってしまうのであまり深くは書きませんが、せつ菜さんの思想や意気込みを知っていただければ幸いです。
また、せつ菜さん以外にも、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会には素敵な方たちが揃っているので、是非ともTVアニメ「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」をよろしくお願いします。

敬愛する、偉大なる優木せつ菜に愛を込めて。

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