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滝桜

今年はコロナ禍が何となく収束したような
世の中が「そんなものは最初からなかった」
みたいなとぼけた顔をしているせいか、
春がうっかりしてちょっと早く
来てしまったようです。
例年であれば4月も中旬が見頃のはずですが
今年は10日を待たずに葉桜になっていました。
はやい。

震災のあと、俺の魂の半分は東北に預けてあります。
あの状況を生き延びた人達、
失われてしまった「たくさんのこと」
それをいつまでも自分事にしていたくて、
毎年通っています。
(震災後数年とコロナ禍中は立ち入り禁止で
遠巻きに見るだけでした。)

樹齢千年を超える大きな枝垂れ桜。
千年以上の間どんなことを見てきたんだろう。
人々の生き死にや天変地異、移ろう景色。
その中のちっぽけな一つなんだろうな、
震災も原発事故も。

そんなことを思いながら、毎年掌を合わせながら
「これからの千年も人々の感嘆のため息を
吸って欲しい」と思うのです。
二酸化炭素だけじゃなく人の思いや願いも吸って
いつまでも気高く優しく、
ただそこにいて欲しいのです。
すごい優しい感じがするんですよね。滝桜。
同時に孤独というか拒絶というか、
物悲しさや諦めも感じるんですよね。
孤高なのかも知れない。

桜が一番美しいのはいつでしょうか。
蕾のワクワクも、咲きはじめの力強さも、
満開の煌めきも美しい。

俺は散り際が美しいと思うのです。
失われてしまう、その瞬間だけは
桜が人々に見られる側から
人々を見る側になるのかも知れませんね。
花びらが人々を包んで
抱きしめてくれるのかも知れません。

「また来年」と独りごちて早朝の
凛とした空気を纏いながら帰路に着きます。
でも来年はもう会えないのです。
来年会うのは同じ樹の別の桜です。
失われてしまうから美しいものに
「またね」はないのです。

桜吹雪に遭難しながら、散る瞬間まで
美しい人でありたいと思うのです。
散ってしまった後に美しい姿だけを
記憶に留めてもらえるような人に
なりたいと思うのです。

それは一度でも咲くことができたもの
だけの贅沢ですからね。

それでは、また。

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