人はなぜSNSで複数のアカウントを作るのか?

個人的な主義として、後ろめたい事がなければSNS上でのアカウントは1つで良いと考えていた。
見られることを意識しても、失言や暴言を発しないのであればアカウントを使い分ける必要などなく。
むしろその混然一体とした様こそ、人そのものであり、情報媒体と捉えた時の純度が高いと思っていたほどだ。

鍵アカウントなど、ちょっと表に出せない発言をする場合にアカウントを人格として切り離すのは分かる。
見る人にとっては不安不快を掻き立てること、それを表で言っていけない理性はSNSでは必需品だ。
しかし、言いたいことを封殺するほどの辛抱強さを持てない、あるいは言ってしまいたい好奇心を抑えられないのは人間のサガだろう。
その結果として鍵アカウントが生まれるのは理解が及ぶ。
僕も似たような経験があるのでそれは分かるのだ。

だが、現実に僕の知る人や知らない人の多くが鍵ではないアカウントを使い分けて運用している。
後ろめたさや事実の隠匿が由来ではなく自身の創作的活動、作品などの紹介で、だ。
僕はこれが不思議で、その人が作ったんだから本体で管理出来る情報だろうし、1つのアカウントで紹介すればいいじゃんと思っていた。
むしろ、その人のフォロワーにその人の作品が届くんだからwin-winじゃないか、とすら考えていた。
仮に情報量が膨大になりアカウントを見る人の処理や閲覧に問題を来すかもしれないが、純粋な人間としての情報密度を上げるのならば、全ての活動や成果は一つのアカウントに集約されるべきだ。
SNSアカウントを人間と捉え、展示された美術品だと考えた時に、一部分だけ離して紹介してあったらおかしいじゃないか。

と、いうのがちょっと前までの僕の主張だ。
よくよく考えてみると(あるいはすぐ気づくべきことかもしれない)この主張は結構ぶっ飛んでいることに気付いた。
人間が美術品かどうかというのは、その人の感性によるのでそれは別にいいのだが、SNSは根底として自身の全てをさらけ出すような場所ではない。
人が情報を発するのには目的があり、それは人に伝えるためである。

これが好き、あれが嫌い。
ここが美味しかった、あそこへ行ってみたい。
自分の体験したことや自分の願望。妬み嫉みの愚痴から感動感謝の喜び。
理由はそれぞれだが、それは誰かに言いたくて、言ってしまいたくて出たものだ。
本当に誰にも伝わらなくていいと、伝えなくていいと思っているならSNSに書かないし、
どんな私情であろうと根底には「知ってもらいたい」と「理解してもらいたい」という欲があるはずだ。
現に僕もこういう話を書いているのは、僕の考えていることを知って理解してもらいたい欲がある。

話がそれたが、そういった欲の側面がSNSにあるのが事実で、その欲が人によっては伝えるべきではないノイズになる。
人に理解されたくて放った言葉が理解されないことほど悲しいことはない。
だから多くの人は、自分のことを理解したくない、あるいは理解できないと思っている人に理解を求めようとはしない。
そういった悲劇を避けるために、伝えるべき欲の形によって人はアカウントを切り替える必要がある。
1つのアカウントで全ての欲の形を発信するのは、相互理解を得るのに現実的な手段ではない、ということだ。

ここで仮に「私は人類の全ての欲を理解してあげられる」と思っている人がいたとしよう。
その人は自分が理解できるのだから、人類に全てをさらけ出してほしいと思うかもしれない。
だが、恐らくその人の家族ですら、全ての欲を理解して欲しくないと思っている可能性が高い。
そんなことが許されるのは、人生における永遠の友人か恋人ぐらいが、そこにいる人は貴方と違って永遠の友や恋人を求めている訳ではない。
海の上で牛を探すのはやめろ。
現実で得られないからこそSNSで探しているのかもしれないが、現実で手に入らないものをSNSで求めると大体おかしなことになるのでやはりやめた方がいい。
人は、全ての人に自分が持っている欲の形を完全に理解出来ると思っていないし、理解されたいと思っていない。

人がアカウントを複数作るのは正しい相互理解を築くための行為なのだ。

今日、このことに気付けた僕は新しいアカウントを作った。
これからは草原で牛を探そうと思う。


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