Pure Japaneseとは何だったのか

Pure Japaneseという映画を観ました。
かなり特殊な映画に感じた。
面白いとかつまらないといったベクトルとはちょっと違い、思想の純度を高めてぶつけてきた映画だった。

この映画は思想があまりエンターテイメント向きではない。
Pure Japaneseとはどういったものを指すのか、といった思想が核にあるのだが、日本人とは何か?がまず視聴者目線と製作者目線でかなり乖離があるように感じた。
作中でも語られるが「日本人とは日本語を話す人、日本語人だ」といった思想が出てくるのだが、これは映画の主演・脚本・プロデューサーを務めたディーン・フジオカの思想が反映されているらしい。

これはディーン・フジオカ及び作中の立石の経験が反映されていると僕は解釈して、日本語を喋れない/喋らない子供が日本人扱いされなかったことの裏返しだと感じた。
だが、純日本人である視聴者にはそのような経験がないため「日本語を話せることが日本語人であること」という主張は俄かに受け入れがたい。
日本語を話せることが日本人であるかどうかを判別するツールとして使われていることは事実だが、日本語を話せるだけで日本語人(日本人)になるのか?と言われたらノーだろう。
もし日本語を喋れない日本人、耳や口などが不自由な日本人がいたとして彼は日本人ではないということになるか?
これは少し揚げ足取りだろうか。
しかし、日本語を理解する、その根底には「日本文化の成り立ち」や「日本語的な解釈が可能」というバックボーンを享受できることが重要で、実は日本語を喋られるかどうかは大きな問題ではない。
だから、日本語を含む世界の母国語というのはあくまでそういったバックボーンを伝えるために便利かつ優秀であるからその土地に定着しているのであり、重要なのは日本語を喋ることよりもその土地の文化や解釈をインプット出来ているか、ということだ。
細かく言えば血筋や物理的な条件が付随するかもしれないが、今は思想の話なのでそこは触れないでおきたい。
厳しい言い方をすれば、日本語の巧拙で他者を排斥するのは未熟な社会認識での出来事であるため、この点に関して僕はディーン・フジオカの人より先に言語がある、言語優先の思想とは相いれないと感じた。

ではPure Japaneとは何なのか。
これを書いている僕も読んでいる人も多くが日本人だと思うが、「あなたは
Pure Japaneseですか?」と聞かれたら面を食らうだろう。

Pure Japaneseって何?純日本人?純血って意味ならそうかもしれないけど、いやいや、Pure Japaneseって英語じゃん、ふざけてんの――。

といった具合になることは想像に難くない。
このPure japaneseというのがそもそもの肝で日本人なら「純日本人」と言えばいいし、わざわざ英語を使うという事は「純日本人」ではなく「Pure Japanese」でなければならないのである。
Pure Japaneseという言葉自体が矛盾を内包するように、作中のPure Japaneseである立石も矛盾に満ちた多くの行動を取る。

立石は平気で嘘をつく。おじいさんが自分の事故で倒れたら毒を飲まされたと嘘をつき、人を殺したのにあれは事故だと主張し、人の事務所で大暴れして正当防衛だと主張する。
こいつが本当のことを喋ってるシーンは無いんじゃないかと思うぐらいだ。
立石がなぜ嘘を付くのかについて僕なりに考えたが、恐らく、それは英語の歌を歌っていじめられた過去の経験によるものだと推察した。
幼い立石は三人の子供に上記の理由で因縁をつけられて囲まれるが、反射的に一人の子供を突き飛ばして怪我をさせてしまう。
とっさの出来事なので事故だと思うが、この出来事を立石はどう感じただろうか。

悪いのは鏡で光を当てて、いじめてきたあいつ等で自分は悪くない。
むしろ、弱い自分を自分で守ったのだから正義はこちらにある。

きっとそんなことを考えたのではないか。
だが、その子供たちの親がどう思うかは別だ。外国人の、よく知らない子供に、自分の子供が突き飛ばされた。
外国人の子供は「いじめられたからやった」と言っている。
一緒にいた他の子供は「あいつがいきなり突き飛ばした」と言っている。
日本人である親は、どちらの言葉を信じるか。

つまり彼の言葉は日本人に信用されない、嘘と同じ言葉だという経験があったはずだ。だから彼は言葉を軽視する。誰も彼の言葉を信じてこなかったから。

そして、いじめによる鏡で光を顔に向けられたトラウマで、彼は破壊的な衝動を持つようになってしまう。

信じてもらえない理不尽さ、自分が日本語を話せる外国人という歪な存在であること、正しいことと間違ったことが反対である世界。
どうしようもないフラストレーションと、それにより生み出される破壊衝動。
それがPure Japaneseであり、日本人に対抗する矛盾存在である。

立石は恐らく日本人として生きて死にたかったが、それが出来ない。
ならせめて、自分をカテゴライズをする世界そのものを破壊するために「Pure Japanese」と自ら名乗ったのだと思う。

己の出生にまつわる矛盾を解消することは非常に難しい。
グローバルだなんだと言ってみても、差別や偏見は人類史に残り続けるだろう。
世界があとどれほど満ち足りたら、災禍が消えるのかは僕にも分からない。
だが、せめて僕の前の前にPure Japaneseが現れたら
必死にもがいた後に、最後はおとなしく斬られてやろうと思う。

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