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【母の遺作】忘れえぬこと 忘れえぬ人々③

 中富レポーターは、真剣に聞いておられた。そして、次にかまわなければ話してくださいと、質問されたのが、クモ膜下出血で倒れた時の状況だった。 

 わたし達は、なんだか初対面どうしのような気がしなくなっていたので、倒れた時のこともお話した。わたしが倒れたのは、昭和五十二年、五月十四日。三十二歳の時だった。職場の懇親会のバレーボール大会で、急に頭が痛くなり、手足の力が抜けていった。「あっ、頭の血管が切れたんだな!」と、瞬間的に判断。ずるずるとコートの外に崩れ込む。床に倒れたまま、わたしは、胃物を吐いた。 吐いたから、今は身体を動かさない方がいいと判断。職場に連れて帰ろうかといってくれる人達に、「このままの方がいい。ここでいい」 と、繰り返し断わる。 動かせば、もっと状態が悪くなるだろうと判断したからだ。校医さんが呼ばれ、やはり「脳出血です」といわれ、救急車が呼ばれた。その間、床で家族達が来るのを待ちながら、母や夫がびっくりして、ひっくりかえったり、交通事故を起こしやしないかと。そっちの方が気がかりだったことも話す。 中富レポーターは、いちいちうなづきながら、「わあ、すごく冷静だったんですねー」と、驚いたり、感心したりした。「そんなんじゃないんです。 その時は、職場復帰することばかり考えていたから、 思考が前へ前ヘといっちゃったんですよ」 わたしは、あの頃の仕事人間ぷりを思い出し、苦笑した。 

 中富レポーターが、真顔でおっしゃられた。「わたしも、今年三十二歳で厄年なんですよ。小桜さんが倒れた時と同じ歳回りだから、そうならないように、気をつけて働かなくては」

 そして、 ご自分の話をされた。
「わたし、九州大学出てすぐ。テレビ局に勤めたの。だけど、実家が山口なので、テレビ局に勤めるというと、すごく反対されて… 」
「山口という土地柄、テレビ局の仕事というと、堅い職場じゃないように思ってたみたいなの。なんせ、堅い土地柄だから … 。 結婚する時に.相手が同じ業界だったので、またまた。大変。今は主人の姑 (はは) と同居してるから、今は何とかやっていけるけど、主婦業は、まるでやる時間がなくて、走りまわってるの。 でも、いい仕事は残したいと思うんですよ。 それでないと、この仕事を選んだ意味がなくなるものね」 彼女の口調は、とても真剣だ った。「女が結婚して働いてる以上、余計いい仕事残こさなくっちゃという思いもありますよねー」とも、くりかえした。

「九州から束京に移った時にフリーになって、しばらく 『鳴かず飛ばず』 だったんですよ。けれども、村上不二夫の会社によんでもらってから、前より良い仕事 ができるようになりました。 今村優合子と同じ会社なんですよ。静岡の仕事は、今回が初めてだから、きちんとやりたいと思って… 」彼女は、この仕事にかける決意を表明した。
 彼女とは、「いい出会い」 だった。
 まさか、初対面の人と、それも取材にこられたレポ ーターさんと、 倒れた時の話をしたり、結婚にまつわる話を聞いたりしようとは思っていなかった。それだけに驚き、感動した。二人とも、結局、女性が働き続けることの意味やリスクを考えあっていたように思う。取材者と被取材者の関係を一歩踏み込んだ、人間どおしの会話として、あの時のことは、今でも忘れられない。そんな会話がもてた彼女のことを、わたしは、とてもステキな女性だと感じた。

 その夜、大間の村の人達が我が家に集まってこられて、おこのみ焼きパーティーしながら、進みつつある地域おこしの夢を語りあわれた。中富レポーターは、その中に入って、わたし達夫婦が、このむらに入ってきたことで、どんな変化があったのかをうまくインタビューしていった。

 むらを支える三十代の青年達が、心情を吐露した。「二十一世紀は、むらに残った三人が、しょぼしょぼと百姓やって、年寄りを支えていくよりしようがないのかなと言ってたのが、少しづつ変わってきたんです」 「今まで、自分の生活を他人と比べる癖があったけど、それより大事なものがあるような気がしてきたんだ」 

 五十代のおじさん達もいう。
「先生がどうしろ、こうしろといわなくても、いっしょに暮らしてるうちに、こうしてみるといいかなと、感じてくるんだよ」
「むらにいると、このむらの良さがわからなくて、これは、いいもんだといわれて、はじめて良さに気づくんだよなー」
 彼が提起している 「大間大学村構想」 や、駿馬庵運営」にかける、 むら人の夢を改めて強く感じる。

 最終の8時15分まで彼女は粘って、大間から東京に帰って行かれた。明朝は、一番機で九州に飛び、さだまさしさんと「九州・旅のレポート」の仕事をされるとの事だった。わたしは、風邪をひいていた彼女に、身体を壊さないで頑張ってほしいとひたすら願うのみ…だった。

 その後しばらくして、その時の取材が、一本の地方制作番組として放送された。「静岡県中小企業団体中央会」と「静岡県信用保証協会」提供の番組、「"ゆとり"ってな〜に?楽太郎・智美(さとみ)の自遊自在!」だった。県内の「ゆとり実験中」の会社や個人が登場して、シ ンポジウムもおりまぜながらの、なかなかおもしろい番組だった。 

 この時点で、わたしにも、テレビ局がわたし共に求めたかったものが丶 よくわかった。街の人間が、山に「ゆとり」を求めに来て、「ゆとりある生活」を送っている画面が欲しかったに違いない。 しかし、実際のわたし共は、そういぅ時点をすでに 通過して、新たな命題に向かっていた。 すなわち、 むらの人と共に街の人達に 「ゆとりの空間」 を提供する行動を起こしている最中だったのだ。 だから、夜、集まって来られた人達も、その観点からの話が多かったのだが。

 むらやわたし共の実態が、当初イメージして来られたものと違っていて、県民テレビ局の方には、戸惑いがあったのではないだろうか。なにせ、あの頃は一日一日、むらもわたし共も変化していたから…。

 しかし、うまく編集して更新してもらえたのに、安心した。画面上のわたし共は、呑気に上がらせてもらったころの匂いを漂わせて写っていたから。

 あれから大分たった。
ブラウン管の向こうに、時々、中富智美レポーターを見かけることがある。 わたしは、あの時のことを思い出して、そっと胸の中でつぶやく。
「頑張って、 いいお仕事してくださいね」

 中富レポーター!
大間もずいぶん発展して、この晩秋には、展望台が新築され、十一月十九日に落成式も執り行われました。 第ー号の山小屋「いろり」も、みんなで建てました。電動工具を買い込んだので、みんなで楽しみながら、机や椅子も作っています。 次は、 「駿河若シャモの飼育だ」「炭焼きもしてみたい」と、夢も広がっています。「ゆとり」 を生み出し、「楽しみながら地域づくり」 をしていこうと、あの時残された形の課題が、ゆっくりとですが、実現の方向に向かっています。

 いつか、また、ぜひ、奥藁科ヘ遊びにいいらっしゃってください。 お待ちしています。

1992年11月28日記

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