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【母の遺作】忘れえぬこと 忘れえぬ人々①

中富レポーターのこと

 わたしは、 一九九二年十一月現在、 四十八歳の障害者で、 出版物の少ない児蘆文学者で、 奥藁科大間ファンクラブ会長です。
 障害者になったのは、 十六年前。 クモ膜下出血で倒れたのが、 原因です。 その時の後遺症で、 左足が不自由で走ることはできません。 立っているだけで、けっ こう疲れるんです。 歩くためには、 全神経を集中させ て、 杖にすがらなければなりません。
 頭痛や肩こりもあり、三度の食事の度に薬を飲み、 身体の調節をして、 生きながらえているのです。
 倒れるまでのわたしは、 子どち達と走り回り、 けっこう 「でも・しか、じゃない教師生活」 をおくってい ました。 教師は一生続けていくつもりで、 自分の生涯のライフスタイルも、その線でイメージしていました。
 でも、 それが不可能になってから、 わたしは、子ども達のことを童話に書き始めました。 いくつかの作品 を生み出し、発表もしてきました。
 いつか、それらの作品をまとめて本にしようというのが、 わたしの夢でした。 それが果たせないうちに、思いがけなく、 新しい環境に飛び込むことになってしまいました。


 三年前、 突然、 山暮らしの話が、 振りかかってきた のです。 静岡市の第七次総合専門委員の仕奉をしてい た、 夫からの提案でした。 経済学者で、 地域政策を専門に研究する夫からの申し出を、わたしは不安いっぱいなのに、 断ることができませんでした。
 なぜなら、 夫とは大学時代 (十九歳) からの友達。 研究者になりたい いう彼の願いを実現するために、 共に苦労してきた仲です。
「彼が研究者として、 真に必要だと思うことには、 できるだけ協力したい。 足を引っ張りたくない」というのが、 わたしの基本姿勢でした。
 そんなわけで、 南アルプスの麓 ・ 奥藁科、 大間の空き家をお借りして、 週末滞在型リゾートを、 いっしょに体験し姶めたのです。 (いつ倒れてもおかしくないな) と思いつつ、綱わたりのような生活が続き …丸三年が、あっという間に過ぎていきました。
 その間、童話を耆く時間は果てしなく削られましたが、 地域の活性化に尽力していらっしゃる多くの方と出会い、 おもしろい勉強をさせていただきました。 その 「おもしろいこと 、おもしろい人」 を種に、 童話や文学作品をまとめあげたいところですが …。 体力のないわたしが、 曰々忙しくなる地城おこしの合間に童話を書いてみても、 集中した時間が取りづらくて、 どうもうまくいきません。また、作品化するには、 まだ生々しすぎることも、 あります。
 時聞をかけて、 ゆっくりと種を発酵させ、熟成させ、 作品化にかかりたいと思います。
 でも …何も記録しておかなければ、 この忙しさの中、 種までも、どこかに埋もれてしまいかねません。 「新鮮な感動」 や 「おどろき」 も、 薄れ、忘れてしまうでしょう。毎日ふえていく種を、種は種として、あまり細工しないで、感じたままを書き留めていきたいとおもいます。そして、順次、みなさんにも紹介させていただこうと思います。

中富レポーターのこと

 わたしが、 中富レポーターと出会ったのは、 約一年前。 一九九一年十月二十日、日曜曰のことでした。 わたし達夫婦が、 大間での山暮らし (週末滞在型リゾートの実験) を始めて、 二年余り。大間・「福養の滝」 に、 休憩所けん物産販売所 「駿墨庵」 が開所して、 三ヶ月余りの頃でした。 

「駿墨庵」 は、 七月六日開所式。 翌日、 初オープン。 それ以後、 日曜・ 祭日に、むらのみんなで運営していくと日程は決まったのですが …。「何を、どのような方式で売るのか。 どれくらいの値段で売るのか? 売れ残った場合は、 どうするのか? どの家のが売れたのか、 把握するための方策は?」 「お客さんに、何を食べていただくのか?それは、 誰がどのように作るのか?厨房の備品購入はどうするのか?」等々…。

 わずか十三戸しかない大間にとっては、 人がいないし、 予算がないだけに、大変な問題。 どう対処しようかと、 むら中、てんやわんやしていました。 

週末滞在型リゾートを体験しに、 大間に上がった筈のわたし達夫婦でしたが … 。 「駿墨庵」 運営に関して、 初めから関わらざるをえなく、 というより、 積極的に後押しせざるをえなく … 。 婦人部を再建し、 子ども会を復活させ、むらに活力を取り戻すための方策を片っ端からこうじて、 問題処理にあたっていきました。(むろん、 むらの人と相談しながらのことです) それらの仕事は、 果てしなく続き … 。 時間は割かれる一方。 二人とも、 健康維持や他の仕事とのバランスを取るのに、必死でした。
小さなむらが、 慣れないことに取り組んで、新しく 生まれ変わっているのですから、 スムーズにいかなくて当然です。 細かいこと一つ解決するにも、みんなで気をつかいあって、 時間をかけてやっていきました。 ともあれ、 七月六日の開所式を無事終え、 夏中、 多くのお客さんに、 喜んでもらうことができました。 

 大過なく夏が過ぎ、初秋もすぎて …。そういう時の、 県民テレビの取材申込みだったのです。 わたし共夫婦は、取材を受けることで、一人でも多くの方に、 大間や、 「福養の滝」 や 「駿墨庵」 を知ってもらえるのならと、あえて俎板 (まないた) の上に乗ることにしました。
 その時、 来られたのが、中富レポー夕ーだったのです。 彼女は、三十歳前後で、 細身の、笑顔の清々しい人でした。
 その頃、やたらと 「ゆとり」 という言葉がはやり、 学校教育にも試験的に 「週休二日制の導入」 がされ、「ゆとりある生活」 とか、「ゆとりの時聞の過ごし方」 が、 いろいろ話題になっていました。 中富レポーターは、この 「ゆとり」 の問題を考える 材料を提供しようと、週末滞在型リゾートを体験中の わたし共を取材に来られたのでした。(続く)

1992年11月28日記

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