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【母の遺作】忘れえぬこと 忘れえぬ人々②

中富レポーターの取材風景を、メモ風に書きます

 朝7時10分、 中富レポーター到着。 制作部の池田さんと、カメラマン、音声の関さんもご一緒。お茶を飲んでいただく間もなく、 慌ただしく出発。 細身に似合わぬファイトの持ち主だと、感心する。 自分の仕事に誇りを持っておられる方だと、初対面の瞬間から感じる。 でも、押しつけがましさがない。 しなやかな感じなので、 好感が持てる。
 途中、街中の県民テレビ局によって、 資材を積み足し、一路大間へと向かう。
 安西橋を渡り、 羽鳥を越え、 水見色を通り、 藁科川ぞいに、上ヘ上へ と、 ゆっくりのぽっていく。 テレビカーは、 まわりの景色も写しながら、 ぴったりついてくる。
 途中、 カメラマンの要求で車の位置を入れ換える。 カメラマンがカメラを構えて、 取材カーの後ろに腰かけて、 こちらの車をねらう。 まるで、 映画の撮影現場を見ているようで、 おもしろい。 わたしは、 もう一台車を出して、 この状況を写して作品に使うとおもしろいだろうなーと、 思う。
 でも、 おもしろがっていたのでは、 真剣に仕事をしているスタッフに申し訳ないような気がして、顔を引き締める。
(それが成功したかどうかは、???だけどなー) 童話作家のはしくれとしては、 もっとすなおにおもしろがりたいところだが …。 ここで要求されているのは、 童話作家のはしくれとしての 「小桜みずほ」の顔ではなく、わたしには苦手な役回りの大学教授の妻、それも、週末滞在型リゾートを実験中の夫婦の妻という役所である。(そういう役所の自分の姿を公表するのは、 本来わたしの望むところではないのだがなー) と、 少々後悔するが…。まっ、仕方がないかってなもんだ。

 そんなこんなで、わたし達は、 できるだけフツーに振るまいながら、大間めざしてあがっていった。 途中、富沢(とんざわ)の柿の赤さにひかれて、二袋買い込む。 無人販売の缶に八百円落としていたら、 中富レポーターが降りてきてた。
「いつも、こんな風に買っていかれるんですか?」「ええ。 富沢の柿はおいしいんですよ」カメラマンは、柿畑や無人販売所を写して、追いかけてきた。
 曰向 (ひなた) 地区まで上がると、四人の女の子が、七草祭りの衣装をきて集まっていた。 巫女さんのように、白い長じゅばんに赤いはかま。 その上に、かろやかな衣のような物を羽織っている。白地のうす絹のような布の上に、緑で模様が描かれている。 大きい子は鶴の模様。 小さい子は松の模様だ。 どの子も、頭に髪飾りをつけ、手に鈴を持っている。 華やかで、かわいい。伝統的な日向の秋祭りだ。
 取材のない時なら、絶対に祭りを見に行くのに、決められたスケジュールで動いているので、残念!来年は絶対見に来よう、と思いながら車を走らせた。 

 少し行った所で、大川地区連合町内会長の内野さんと出会った。 いつもは、ラフなスタイルの内野さんだが、今日はちがう。 背広が良く似合う。 日向の人の、 祭りにかける情熱を、改めて感じる。
 車を止めて外にでる。 中富レポーターもおりてきた。内野さんとの立ち話で、大川地区の診療所のお医者さんが、まだ決まらないことを聞く。そのため、内野さんは、東奔西走しているようす。(大変だなー、 無医村じゃ。 お年寄りが多いのに) わたしは、思わず、ためいきをついてしまった。 

 側にいた中富レポーターが、突然、つぶやいた。 「もし良かったら、父が来させていただいても …。父は、今、山口で病院を開業してるんです。 けど、もし、どうしてもお医者さんが見つからなければ、こちらに来るように、話してみましょうか」

  初めて奥藁科にやってきたのに、わがことのように、無医村状況を心配してくださる中富レポーターに驚く。 「父は、わたしが結婚して束京で暮らしているので、近くに引っ越ししてこようかと考えているらしいんですよ。 これくらいの距離でしたら、けっこう東京から近いから…」

 内野さんが。 柔らかくことわった。「ありがとうございます。でも、今、ちょっといい話があるんですよ。 大川が無医村になったという、朝日 新聞をみたお医者さんが、来てもいいといってくださるんです。 けど、クリアーしなきゃいけない問題が、まだあって… 。 でも、 良い方向にむくと思います」 「はやく話がまとまってくれればいいですね」 みんなで言いあいながら、 車に乗り込む。 中富レポーターの心づかいに、感心する。お父さんの話にしても、反応が素早いのに、おどろく。

 大聞に、到着。
 わたし達は、いつものように、雨戸を開け、風を入れて、山暮らしの準備をはじめる。 中富レポーターやカメラマンが、それを追ってくる。 夫の仕事風景や、ハンモックに寝そべっているところなども、どんどん撮っていく。「駿墨庵」 で働いている人達や、野良作業をしている人達へのインタビューも、次々とこなしていく。わたし達がいつもしていることを、短時間で、次々と取材していく。日帰り日程だから、 ゆっくり、じっ くりとは、いかないわけだ。この大間の持つ自然の豊かさや、「ゆとり空聞」を 満喫してもらうには、ちょっぴり時聞が足りなさそう。
 でも、 休憩時間返上で、 彼女は頑張る。風邪を引き込んで、 体調も悪そうだったのに…。
 わたしにも、 なぜ大間にくるようになったのか、質問した。 わたしは経緯を率直にお話する。
 夫が市の第七次総合専門委員になり、市内視察の一貫として、この大間におとづれたこと。 彼は、この地の活性化を提言するにあたって、この地の人々と同じ空気をすい、この空間を共有して、この地の人々の思いを肌身に感じた提言をしたいと願ったこと。 そのためには、実際住んでみなければと考えたこと。そのことが、わたしにもよく理解できたし、そうあるベきだと思ったこと。でも、最初はとてもおどろいたこと。
 いっしょに行こうと言われて、 クモ膜下出血の後遺症を引きずっての身には、この道中も、ここの坂も、とても辛かったこと等々…。
 また、わたしは、大間の自然と歴史の魅力に取りつかれたこと。 人間の積み重ねてきた労苦=努力に、とても感動したことなども、 お話しさせてもらった。

 このむらは、はるか四百年六十年近く前、信州高遠・乾の町から、砂宮太夫さんを頭に落ち延びてきた三人や、その子孫の人達で守り、発展させてきたこと。その努力と苦労を考えると、胸がいたくなるような感動を覚えること。 同時に、山間地にたいして、市街地住民の関心が薄いことに疑問を感じていることも、話させていただく。 山の自然を守っているのは、ここに長く住んでいる住民の努力の結晶で、その自然環境の良さを享受している街の人達が、そのことをきちんと認識してくれて、山に対してもいつも目を向けてくれるといいと思う。できれば、自然を守っていくための費用負担?めいたものも考えてくれるようになると、山間地だけが取り残された感じにならないのじゃないかしら?等。 大聞に来て感じるようになったことも、 ぼちぼちとお話させていただいいた。 (続く)

1992年11月28日記




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