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【母の遺作】女のエッセー

昭和63年(1988年)5月21日(土) 中日新聞掲載

病魔に教職を奪われ 家族の励まし「社会参加これしかない」

「あなたは童話を書き続けなさいよ」ー友人たちに言われると複雑な気持ちになる。「書くこととは、恥をかく事だ」と骨身にしみて思うからだ。

書くことが、こんなに自分をさらけ出す行為だとは知らなかった。でも、「あの時」は童話を書くことにすがってでもいなければ、どう生きようもなかったに違いない。

「あの時」とは十一年前。くも膜下出血で倒れ、左半身がマヒしてしまった時のことだ。寝返りもできない重い身体。

私はまだ三十二歳だった。「今夜が峠か、もっても一生植物人間のままですよ」と、宣告されたとも知らず、職場である幼稚園のピアノ伴奏を気にしていた私。教師を生涯の仕事と定めて、突っ走ってきた仕事人間の悲しくも可笑しな性だった。娘たちはまだ七つと四つ。子どもたちのためもあったが、どちらかというと職場に戻りたい一心で、リハビリに夢中で取り組んだ。

だが、夢破れ退職。毎食後の薬で再出血を防ぐ日々が今も続いている。

教職一筋の生活しか送ってこなかった私は、一挙に生きがいのすべてを失った。おまけに身体は不自由。新たに何かを始めるには条件が悪すぎた。夫が「書けよ」と勧めてくれた。大学時代に人形劇の脚本や童話を少し書いていたからだろう。その言葉にすがって書き始めて十年余。

初めは「書く事」それだけでよかった。書いているという行為そのものが「生きている喜び、生きている証」だった。上手も下手もない。原稿用紙のマス目を埋めていればよかった。「今日も母さんに暗い顔されなくて済んだ。めでたい、めでたい」。家族の思いもこうだっただろう。が、やがて書けなくなった。子どもたちへのメッセージを作品の中に込めたいと願うと読者や文体等を意識せざるをえなくなり…。変化の激しい今の子どもたちに呼んでもらえる作品をと考えると、課題はますます難しくなっていった。

体力も文才もなく、感性も貧弱な私が書くのだから、無理が生じるのは時間の問題だったのだが…。書いた文の端々から、選び取ったテーマの裏側から、私の人間性が透けて窺えるような気がしてならない。怖い。書き続ける事は、しんどい事だ。書きさえしなければ感じなくて済んだ無力さや不勉強さを、もろに感じさせられる。

「もう書けない。もうイヤ」泣き言をいう度、夫は黙って私を車で連れ出した。カーブの多い日本平。潮風のにおう久能海岸。海に面した喫茶店。(風のにおいを忘れちゃった。そんなんで、書けっこないじゃん)まるで心中の言い訳や泣き言を察しているかのようだった。自然に包まれていると気が和む。またやってみようかなという気にもなる。

それでもしょぼくれたままだと、きまって夫は言う。「書くより他に出来る事ある?」家事もできない、外出もままならない、私の状態を百も承知でのセリフだ。返す言葉のあろうはずがない。いつになったらマシな作品が書ける事やら…。見当もつかない。「皆、かっこう良く生きてるじゃん。何を好きこのんで自分をいじめているのよ。軽ーくいこ」。心中でもう一人の私がゴソクッテ言う。「そうね。でも私が社会参加していくにはこれしかないのよ。ゴメンネ」

かくて私は、またこのような「恥をかいている」わけである。




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