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藤原和博の必ず食える1%の人になる方法 #気ままに読書感想文




藤原先生、お久しぶりです。

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100分の1人×100分の1人×100分の1人で10,000分の1人になりなさい。

藤原先生の本を読むのは新卒以来、2〜3年ぶり。
先生の教えは、私の人生観やキャリアの考え方の基礎にずっといてくれる。


携帯ゲーム依存症ー頭を使わず、せいぜい反射神経で反応しているだけ。
ゲームに依存している人はメディアに使われている。

辛辣な言葉。耳が痛いと感じるのは自分も少なからずそうだからだろう。
「せいぜい反射神経で反応しているだけ」というのが辛辣で、でも的を得すぎていてちょっとクスッとする。


ゲームやSNS、いつまでも続けてしまうネット依存。
スマホをイジリ続けながら、何を見てるわけでもなく、でも視線は画面の中を追う。
(確かに本当に有益なものを見つけていることもある。でもその割合は、1割くらいじゃないかな)


「成熟社会」というのは、「みんな一緒」から「それぞれ一人ひとりになるということ」全員に共通する価値観が減っていき、バラバラの個人がそれぞれの人生を模索していきます。

私は昔から自分の意見がなかった。自分の意見を語る人が不思議で、羨ましかった。
「へぇ、そうなんだ」という私の薄っぺらい返答には、興味がないのか、知識がないのか。教養がないのか。その見当すら自分でつけられていなかった。

だから私は最近、貪るように本を読む。
読書のアウトプッっとの場として、noteを書くようになって「すごい」「最高」「素敵」という言葉を使う癖に気づいた。
ついつい癖で使っていただけだが、この言葉を多用することに一種の嫌悪を感じるようになった。

「言葉が可視化される」=「自分が使う言葉の癖が見える」

noteは自分との壁打ちかもしれない。
誰かに対して話していた内容を文字にすることで自分と対話する。
そこから見える景色は今まではちょっと変わったものになっていると思う。


外国人と英語で話していても教養の差は出る

日本語より、むしろ英語の方が明確に出る気がした。
日本語でも英語でも話している内容は変わらない。「日本語」「英語」という言葉のツールが変わっただけだ。

「日本語」だと、どうでもいい話でごまかすことができたとしても、英語だと日本語より語学力が足りない分、「しのぐ・ごまかす」ことができない。

そうすると自分のカラっぽさがよくわかる。
何を話せばいいのかわからない。
相手が何を求めているのかわからない。
話したい内容がない。
英語を話しているときにビシビシ感じるジレンマ。


相手が知っているものに合わせて説明する
「X」は知らないもの。
でも「A」+「B」+「C」は「X」です。

「相手の頭の中を想像しながら話す」
新卒の時、営業として叩き込まれたことがやっと繋がった。


本を読めば、その著者の視点から世の中を擬似的に見ることができる。
外からその人を見るのではなく、その人の体験を議事体験する。その人の中に入り込む。

今までたくさん本を読んできたけど、この考え方は目から鱗。
それ以来、◯◯さんの目線で今、読んだり、感じ取ったりしているんだと思うと、なんだかニヤニヤしてしまう。笑


「リビングにテレビある人は教養がない人」

部屋の電気をつけて、テレビの電源を入れる。
実家にいたとき、もはや無意識に近い感覚で繰り返していた動作。

この本を読んでいる時に、ときどきテレビの音がふと消えたり、ついたりをくり返していたので目線をあげた。

シェアメイトが私の横でテレビを見ていたけれど、彼女はCMの度に音を消してストレッチをしていた。

無為に時間を過ごすのではなくて、欲しいものだけを掴み取る。
自分の空白をテレビで埋めるのはやめよう。


「ケータイを切って、書を読もう」

本の中に書かれているように、何かのスキルや経験を磨くこと・取り組むことは確かに素晴らしいし、これからの力になる。

でももしかしたら、「ケータイを切って、書を読もう」
この言葉だけが藤原先生が伝えたかったすべてなのかもしれない。


<追記>
この本が紹介されている、キンコン西野さんの本を読んだ感想文はこちら。
ぜひ2冊一緒に読んで欲しい本たち。




お神輿が最後の最後に海に突っ込むという最高にワイルドなお祭り。
遠くに行かずに地元の楽しさだけで過ごせる週末が平和で幸せ。

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