見出し画像

選んでみたよ!「平成の映画」ベストテン!!

30年から10作、ってなかなか大変かなと思いきや、わりとアッサリ決まりました。かなり偏ったチョイスになりました。
観たことのないヒト向けの感想を簡単に書いていきます。とはいえネタバレもあるかもしれません。基本的に、ここに出てくる映画監督の作品は甲乙つけがたいのですが、いまの気分で選びました。

第10位『パルプ・フィクション』 クエンティン・タランティーノ(1994/平成6年)


『レザボア・ドッグス』で鮮烈デビューを飾った映画オタクの鬼才、クエンティン・タランティーノの名を更に知らしめた2作目ですね。この時点で既に彼は完成していた。タランティーノという作家の価値を決定づけたと思う。僕はコレを渋谷で観たあと、スペイン坂をニヤニヤしながら歩いたのを覚えている。ギャングを中心とした複数の視点で話が並行して進むんだけれど、時系列の順序をいじくりまわすことで'技巧'を見せつけてくる。本筋とカンケーのない長い馬鹿話、残酷なんだけれどどこか間抜けなギャングの世界、偶然が重なった滑稽かつ悲惨な展開、音楽の選び方。最初から最後までクールでカッコいい。タランティーノはここ数年、更に「深み」と「軽み」を同時に備えた傑作を連発しており、もはや完全に巨匠ですね。

第9位『エドワード・ヤンの恋愛時代』 エドワード・ヤン(1994/平成6年)

ホウ・シャオシェン(侯孝賢)と並んで、台湾映画界の二大巨匠の一人。そして侯孝賢と同じように、とんでもない詩人。遺した作品は少ないけれど、珠玉の名品しか無い。ヤンの代表作として、圧倒的に美しい大巨編『牯嶺街少年殺人事件 』や、その名を世に知らしめた『恐怖分子』を挙げるヒトが多いと思うけれど、あえて、この、現代的な恋愛ドラマにした。エドワード・ヤンはことさら"東洋"を売りにしない。世界のどこにだっている、都市部や田舎の'ふつう'の若者たちを通して、醜悪も崇高も等しく炙り出すように社会を描く。本作では、たった2日のあいだに起こる、都会のエリートの若者たちの複雑な心情や、もつれまくった関係性が綿密に描かれる。人物造形や、そこで起こる問題はとことん「ベタ」なものばかりなのだが、めまぐるしくシーンが入れ替わり、目が離せない。「高速群像劇」という感じだ。ラストシーンが、これまたベタなんだけど、「エレベーター」という装置の使い方が非常にうまくて、とても良い後味となった。甘くてせつない。まだまだ彼の作品を観たかった。早逝が惜しまれます。

第8位『マッチ工場の少女』アキ・カウリスマキ(1990/平成2年)


この映画がカアキ・ウリスマキ監督初体験だった。「なんなんじゃ、これは!」となった。彼の作品はどれもテイストが似通っているけど、その独特の雰囲気がいつも面白い。寒いフィンランドの、寒々しい風景の工業地帯で、みんな基本的に暗い顔をしており、酒を飲み、笑顔が少なく、そして「美男美女が出てこない」。全体的に陰気な、あるいは悲惨な話が多く、徹底的に絶望しかなかったりするのに(ほんのわずかな希望の光がある作品もあるけれど)、人間賛歌のようなものが感じられる。この、60分たらずの初期の名作でも、ホントに不遇な不美人が人生をズタボロにされて、静かに復讐をするだけの話なのに、メチャクチャ面白い。徹底的な悲劇が醸し出す喜劇の側面が、この人の作る作品にあたたかみを与えていると思う。

第7位『この世界の片隅に』片渕須直(2016/平成28年)

なんというか、悪く言いようがない、ほとんど完璧な映画だと思う。物語と、表現(演出)と、音楽と。。こちらについては、過去のnoteをお読みいただけると嬉しいです。

第6位『ソナチネ』北野武(1993/平成5年)

『キッズ・リターン』『3-4x10月』と並べてどれにするか悩みました。『その男、凶暴につき』から『キッズ・リターン』までの、初期北野武の映画は「事件」としか言いようがないほど衝撃的で、圧倒的な力がある。『ソナチネ』はたけしがバイク事故で瀕死を経験する前の、最後の作品ですね。当時のビートたけしは、世の中に疲れて、あるいは空虚を感じ、倦んでしまい、無自覚に死に向かっていたんじゃないか、ということを感じさせるような内容。わりと複雑な背景のある、エグいヤクザの抗争の話なんだけど、過剰な暴力を描きつつ、それとは正反対の、静かなピアノ演奏のような静謐さが満ちている。ヤクザのオッサンたちが暇を持て余して沖縄の海辺で遊ぶシーンは、あの頃のビートたけしにしか撮れないと思う。海辺は生と死の境界であり、また、映像のなかに常に「死」の気配が濃密に立ち込めているから、あのひたすらに青い海と白い砂のシーンが美しい。

さあ、5位から1位は、あの日本人映画監督や、ここまで出てきていないのがおかしい、あの大御所も出てきます。ネタバレしちゃってるのもあります。

第5位『黒猫・白猫』エミール・クストリッツァ(1998/平成10年)

圧倒的すぎる才能を持った映画監督だと思う。文学でいうと、フォークナーとかガルシア・マルケスとか、そのレベルの人。世界三大映画祭すべてで受賞している。ユーゴスラビアの50年に渡る紛争の歴史をファンタジックな手法で描いた『アンダーグラウンド』も絶対的な金字塔だが、僕は「明るく狂って」いるこの作品を推したい。物語は単純で、ドナウ川のほとりに暮らすジプシー一族の、恋と犯罪を中心としたドタバタ喜劇。クストリッツァはジプシーたちをよく描くんだけれど、この映画では、「人間の生命力」が華々しく大爆発している。画面のなかで人々が、そして動物たちが躍動しまくっている。音楽とダンスのエネルギーが尋常じゃない。同じ地球上にこんな暮らしをしている人たちがもしいたら、と考えると嬉しくなってしまう。こんなに祝祭のような、デタラメにハッちゃけた人間たちの悲喜こもごもを愛らしく描いて笑わせることがデキるってどういうことだよ、という。

第4位『EUREKA(ユリイカ)』青山真治(2001/平成13年)

傷ついた精神がどう「再生」していくのか、その過程を描いた映画のなかでは、ぶっちぎりのクオリティ、そして奇跡のように美しい映画だと思います。物語は、凄惨なバスジャック&殺人事件で生き残った運転手の男性と、同じくその場にいた中学生と小学生の兄妹が再会し共同生活をして、やがて旅をするのだが、ある殺人事件が起きて・・・、という話。3時間半におよぶ物語の大半はセピア色の映像で、ある瞬間に、「世界」が"色"を取り戻す。長い、、と感じる人が多いかもしれませんが、登場人物の性格や心の傷、弱さ、そして「他者」性などを、説明的にならず、描写の積み重ねで丁寧に丁寧に描いていて、けっして冗長なわけではない。あと、後半の、九州の阿蘇山のあたりの風景のシーンがあまりにもきれいでね。そう感じるのも、登場人物たちの心理にいろいろな視点から寄り添ってきたからで・・・。これは小説に変換しても純文学としてそれなりのモノになりそうだけど、映画でしか表現できない人間描写って、こんなレベルに到達できるんだな、と思いました。

第3位『許されざる者』クリント・イーストウッド(1992/平成4年) 

出ました。御大。もはやイーストウッドこそが映画である、と言いたくなる唯一の大名人。どれかひとつと言えば、やはりコレでしょう。『許されざる者』を掲げて「これこそが映画なのだ!」と叫びたくなる。舞台は19世紀後半のアメリカの田舎。かつて伝説の人殺しだったが今はおとなしく農夫として生きている男マニー(イーストウッド)、彼は貧困から、ある町で悪事を働いたという賞金首を狩る、という話に乗って、その小さな町に行きつくのだが、真の「悪党」は町を仕切る保安官だった・・・。権力を持って「正義」を行使し治安を維持し、自らの正義を疑わない者の統治が行き過ぎて暴力となったとき、誰が彼を裁くのか、という問題。ここに「引退」して大人しくなったようでいて、実はブチ切れたらマジに恐ろしい元・悪党マニーが登場する。そしていったんブチ切れたが最後、悪党ではない人たちもブッ殺してしまう。言ってしまえば完全懲悪モノのようなのだけれど、現実に、悪党退治なんてそんなにうまくいかない。イーストウッドは、それをわかったうえで、自警主義的暴力を肯定も否定もしない。まあ、凄い映画です。そしてこの作品以降のイーストウッドの映画は僕は全部観ているし、全部オススメしたい。

第2位『桜桃の味』アッパス・キアロスタミ(1997/平成9年) 

この世でいちばん好きな映画監督。オールタイムナンバーワンは『友だちのうちはどこ?』なんだけど、昭和なので、コレにしました。初めて劇場で彼のこの作品を観て、腰が抜けました。その映画の構造、手法に、です。人生に絶望し自殺したい男が、自殺を手伝ってくれる人を探し、知り合った人たちとの交流が描かれます。荒涼とした、茶色い大地がむき出しになったイランの風景が印象に刻まれます。やがて男は一人の老人と自殺ほう助の契約を結びます。しかし・・・。「結末」と、キアロスタミ監督への愛はこちらに書いてあります。↓
 キアロスタミ追悼 - Togetter https://togetter.com/li/996261
作中に、この『桜桃の味』という映画作品を撮影するスタッフや役者が出てくることが、こんな効果を生み出すとは・・・。われわれは、いろいろな形での「桜桃の味」のようなものを皆持っている。けっして押し付けがましくなく人に生きる希望を与えるというのは難しいことですが、キアロスタミという人はそれが出来る偉大な映像作家でした。

第1位『マルメロの陽光』ビクトル・エリセ(1992/平成4年) 

第一位はコレ以外ないですわー。知らないですよね。。超寡作作家で、長編を3本しか撮っていない。その3作目。この作品と出会えたことに感謝です。ドキュメンタリーなんだかフィクションなんだかよくわからないです。実在するスペインの画家(アントニオ・ロペス=ガルシア)が、アトリエで、マルメロ('かりん'のような果物)の樹の絵を描き始めるのだが、描き上げられないあいだに季節は秋から冬へと移り変わり、やがてマルメロの果実は熟し、腐り落ちる。画家は絵の完成を諦めるしかないのか、という内容。これだけ。映画監督ビクトル・エリセは、ひとつの絵を描いてる画家に密着してその姿を撮影している。エリセが寡作なように、この画家もまた恐ろしく寡作、というか、ひとつの絵を描きあげるのに、20年も費やす「おかしい人」だ。マルメロを完璧な角度から、完璧な光加減で描くことを目指し、そして描けない。何十年かけても描けない。時代は1990年頃で、ラジオからは不穏な世界情勢が流れてくるが、アトリエは穏やかだ。画家のもとに友人や子供が訪れ、会話をする。特に古い美術仲間との談義は長くて、愉快だ。画家の美術観、人生観が浮かびあがってくる。アトリエの改装工事をする職人たちの姿や会話もそのまま目にすることになる。彼らの会話から、彼らは彼らのレベルでのささやかな日常を生きていることがわかる。マルメロの樹を描けなくても、美しいマルメロは毎年実をつける。家族や友人との穏やかな、人生の時間がある。この作品の監督であるエリセ自身が、この「描けない画家」を自分の作品として撮る、ということで、「映画」を自分のなかで「描き上げてしまった(完成させてしまった)」かのようでもある。穏やかな、日なたのデッキチェアとウトウトしているときのような幸福感がこみあげてくる映画だ。

こうして見ると、詩的な、いかにも'アート'然とした作品を好む傾向がありますね。しかしこれは僕が映画に求めることそのものなので。。観終わったあとに、一滴でも自分自身を、言い換えれば世界を見るまなざしを豊かにする「何か」、それを期待していつも映画を観ています。(全部じゃないけど)
皆さんはどんな映画が印象に残っていますか?

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?