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1995年

阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった1995年から、28年が経った。
Windows95が発売され、『エヴァ』が放映された。そして戦後50年だった。

28年・・・ 当時ぼくは21歳だった。2005年で31歳 (この年に結婚し、翌年に娘が生まれた) 、2015年に41歳。。
もう50歳近いわけだが、人生の時間の体感的な感覚だと、生まれてから30歳くらいまでが75%くらいの密度、時間の長さに感じられて、30代と40代は本当に「あっという間」という感じだ。若い人は心しておくように。

1995年は、バブル経済が崩壊して2~3年経っているが、社会全体の空気はまだ明るい時期だった。しかし震災と巨大な事件が起きたことで、一部の社会批評家はのちにこの年を「時代の転換点」のような位置づけとした。

ぼくは当時は文学や文芸批評、現代思想、社会批評などに人生の中で最もハマっていた時期で、そうした言論の多くを読んでいた。たとえば宮台真司は『制服少女たちの選択』(1994)、『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』(1995)を出版した。また80年代に活躍した柄谷行人や浅田彰などの批評誌『批評空間』がこの頃 "界隈" で流行っていた。
『ゴーマニズム宣言』もこの時期が最も勢いがあった。あ、有名なソーカル事件もこの頃かな。
文学は新難解派と呼ばれる、多和田葉子/奥泉光/笙野頼子/保坂一志/川上弘美/阿部和重などが頭角を現していた。

とにかく、今にして思うと批評"界隈"がやたら元気だったと自分には感じられて、その後の東浩紀などが形成する「いわゆる、あのへん」への流れが出来つつあった。オウム事件とエヴァンゲリオンは、(言い方は悪いが) 批評家に格好のネタを与えた。

サブカル系雑誌もめちゃくちゃ売れていた (ように感じた) し、CDは史上もっとも売れまくっていたし (小室系、渋谷系、ミスチルなどの全盛期) 、文化全体に活気があった。
少年ジャンプはまだ売れていたし、小学館のスピリッツ、講談社のモーニングやアフタヌーンもめちゃくちゃ勢いがあった。(『寄生獣』が完結したのもこのあたり)

ハッキリと社会が暗くなりだしたのはその3~4年後、山一倒産があったり自殺者が一万人も一気に増えた98-99年頃だった。

ぼくはいつも書いているように、文芸・映画・民族音楽を中心に、20代はサブカル糞野郎だった。
人生に"いろいろ"あって93年からフリーターをしていた。94年は北アルプスの山小屋に住み込み、95年のはじめから春までは沖縄の与那国島のサトウキビ畑に住み込みで働いていた。
95年の夏から、東京のオサレ街・自由ヶ丘の書店でアルバイトをしながら小説家を目指し、サブカルスノッブ気取りで、恋愛性愛にまみれた生活を6年くらい続けた。就職氷河期世代だが、実は就職なんかしようと思っていなかった。

そのころの怠惰の「ツケ」は、30代40代ではらうことになったが、人生なにがきっかけでどういう道を歩くことになるのかわからないので、今は特になんとも思っていない。

それでも1995年は、(貧しいけれど) 本当に楽しい20代のはじまりの時期だったし、人生で自分の感性がもっとも豊かだったと思う。登山や一人旅、文物への傾倒など、たくさん遊んだことは得難い経験となって、子供たちへ語る内容に事欠かない。

30年近くたって世の中は暗くなるばかりだが、ぼくは自分で自分のゆく道をもうあと少しだけ切り開いていく。あと15年くらいでポックリ逝きたいと思っている。

特に意見も結論もない文章になったけれど、阪神の震災のニュースを観て、「あのころ」を思い出してみた。

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