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いけがやさん

脳はブランドに反応する

脳がそうデザインされている以上、真正面から認めなければいけません。これは脳の性癖です。この性癖を否定することは、ヒトそのものを否定することと同じです。
胸に手を当てて、自分に宿るブランド意識を素直に認めたとき、自分の思考や意思決定に、新しい展開が生まれるかもしれません。

ブランドものばかりだといきっている感じで羞恥の感情があったけど、しょうがないものなら受け入れよう。


意中の人の左側に座る「シュードネグレクト」効果

このような左重視の傾向は、顔だけではなく、さまざまな分野に見られます。
魚の絵を描くとき、図鑑、料亭の活づくり→頭が左

また、八百屋の目玉商品も、通路の左側に陳列した方が、よく売れるという実験結果もあります。

やはり大切なのは全般的に「左視野」のようです。このように視野の半分を重要視して、もう一方を無視しがちなヒトの認知傾向を「シュードネグレクト」といいます。
(中略)
私たちが他人から見られるときは主に、相手にとっての左視野、つまり自分の「右側」に注意が集まっていることになります。そう、気合の入れ甲斐があるのは右半身なのです。

右側メモメモ。
日常での左側重視も言われれば確かにということが多くて面白い。

プレゼンの決め手!

脳の画像を見ただけで説得度が変わるのですから、ヒトはとりわけ映像的説明に弱い生き物だといってよいでしょう。

確かに字だけより、適当でもグラフと数がある方が聞く読む気になる。


脳は感情を変更して解決する

一般に、自分の「行動」と「感情」が一致しないとき、この矛盾を無意識のうちに解決します。つまり、行動か感情のどちらかを変更して、両者を一致させようと試みます。この二つでは、どちらが変えやすいでしょうか。言うまでもありません。「感情」のほうです。「行動」は既成事実として厳として存在しています。事実は変えようがありません。そこで脳は感情を変えるわけです。

洋服AとBが同等程度に好きだが1つしか選べない
Aを選択
しかし、Bも同等程度好きであったため、自分にとって行動と感情が矛盾する
感情を変更する
本音を言えばBはそこまで好きではなかった
その後洋服AとCから一着選択する
Aの方が圧倒的に好みなため、Cを下げる必要はないので選択後も評価は変わらない

厳しい儀礼を受けてまで入団した。これは事実である。この事実は変えられません。だからこそ「その試練を進んで受けるほどに私はこの団体が好きだったのだ」となります。

これ、読んだ瞬間に今までのこういったシチュエーションがフラッシュバックした。
脳がこうやって処理してくれないと、ずっと脳内でそれのことばかり考えて他のタスクがおろそかになる自信しかない、、、、

罰はなぜ存在するのか

さて、「罰」があるとヒトの行動はどう変化するのでしょうか。なんと50%以上で「協力」を選択するようになります。なんとも面白いことです。一見すると善意に思える「協力」という心温まる行動は、じつは、罰を恐れた利己的な選択であると解釈することができるのです。
つまり、「罰」はルールとして“存在している”ことが重要であって、実際に罰する必要はないわけです。こうした"見えざる力"が私たちの安定した社会を形成しているのだということが、このようにシンプルな実験を通じてようやく解明され始めています。

なるほどな。
こんなこと考えたことなかったし、言われてみれば確かに過ぎる。
監視カメラがなくても見ていますとか、罰金とるといってとる気はないとか。
保育の中でもうまく取り入れれるのかな。


ヒトはなぜ笑うのか

面白いことに、恐怖の表情を作ると、それだけで、視野が広がり、眼球の動きが速まり、遠くの標的を検知できるようになりました。さらに、鼻腔が広がり、呼吸のリズムまでもが速まったのです。一方、嫌悪の表情を作ると、全く逆に、視野が狭くなり、鼻腔が狭まり、知覚が低下しました。
これは合理的な変化です。恐怖を覚える時に、外部へのアンテナ強化に敏感になることは、しかるべき準備として重要だからです。一方、嫌悪するときには感覚入力を閉鎖する方がいいでしょう。「臭いものには蓋をする」という作戦です。
つまり、この実験データは、恐怖や嫌悪の対象は、感情そのものではなく、それに相応しい表情を作ることによってスイッチが入ることを示しています。

「うっ」と思うとき、気持ち悪いみたいな感情から察知できていると思ったけど、そうではなかったのは驚き。
でも、笑顔も他の文献で書いてあったけど、顔から表情を作る体への影響はすさまじいのだと思いなおした。


日本語は気合で、英語は身体で元気を出す

「頑張れ」はあえて英語に翻訳すれば、「Chin up」や「Cheer  up」などの表現が近いニュアンスでしょうか。直訳すれば「アゴをあげろ(=うつむくな)」あるいは「声をあげろ」という意味です。どちらも、身体的な行為を指す表現です。
日英の表現の違いの表現は面白いと思います。日本語はあくまでも心の内側から気合で元気を出すのですが、英語では身体的表現を通じて元気を出すのです。
この違いは文化の差としか言いようがありませんが、こうした精神重視の傾向は日本の伝統文化をあぶりだしているようにも思えます。つまり、身体性が希薄なのです。

この本を読み進めていると、行動を変えたければ体で動きをとり気持ちを変えようといったことが多いので、精神論は効果が出にくいよなと思った。

コーヒー豆の香りを嗅ぐと、どうなるか

コーヒー豆のような心地よい香りを嗅ぐと、それだけで相手に対してよい印象を抱くようになるということ、そしてポジティブな感情はそのまま「相手を手助けしたい」という心理に転じるとのことです。

気になる人にはコーヒーをあげるか、私が飲もう。
てことは、コーヒーをよく飲む国の人は優しさにあふれているのかな。


もっとも効果的な勉強法とは?

私たちの脳は、情報を何度も入れ込む(見聞する)よりも、その情報を何度も使ってみる(想起する)ことで、長期間安定して情報を保存することができるのです。これを拡大して解釈すれば、「参考書を繰り返し丁寧に読むより、問題集を繰り返しやるほうが、効果的な学習が期待できる」となります。
入力よりも出力を重視―脳はそう設計されているようです。

ドキドキのドキデス。
やるっきゃねぇ。


アイスコーヒーよりホットコーヒーに親近感

実験終了後に、コーヒーを持ってくれた人に、依頼者の人間性の印象を尋ねたのです。アイスコーヒーよりも、ホットコーヒーのほうが「穏和で親近感を覚える人柄だった」と高評価を与えられることがわかりました。
「なんと単純な!」とお思いになるかもしれません。しかし、晴れの日の初デートのほうが、雨の日よりも、相手への好印象を持つことも、実験心理学的に示されていますから、人に対する印象は、思いのほか環境要因からシンプルな影響を受けるのでしょう。

ホット、、、、でさらにコーヒーなら最強やん。


悪しき感情が減っていく

マネーゲームをしているときの脳のは脳を調べたところ、「損をしそうだ」と予感させる状況では、若者の方が脳が強く反応したというのです。特に金額が多くなるほど反応が強かったのです。
逆に儲かりそうな時の反応は、若者と年輩者で差がありませんでした。つまり、年輩者は損をしてあまり固執しないということになります。ただし、実際に損をしてしまったときの反応は、若者でも年配者でもほとんど同じだったといいますから、損失そのものへの嫌悪感は年を重ねても減ってはいきません。ただ、損をそれほど回避しようとしなくなるわけです。
キスレー博士は「年齢とともに悪しき感情が減っていくという実験結果は、一見好ましいことに思われるが、リスク管理能力という意味では歓迎すべきだろうか」と釘を刺しています。高齢者が詐欺被害にあいやすいことを考えれば、博士らのいうことにも一理あります。
とはいえ、脳は歳をとると「より幸せを感じる」という傾向は見逃せません。周囲に何と言われようとも、本人が幸せに感じているのであれば、何よりそれが一番幸せではないでしょうか。「人の老うるをおそれず、只心の老るをおそれる」とは中国の諺。

ふかい。


問題解決には議論しあうほうがよい?

誰かが答えを知っていれば、その正答が周囲に伝わりますから、この結果は当たり前のようにも感じられます。しかし、学生のディベートを丁寧に調査すると、答えを誰も知らない状況でさえ、正答率が上昇することがわかったのです。つまり正答とは、単純に伝播するだけではなくて、議論の中で新たに芽生えるわけです。
面白いことに、議論を通じて政界にたどり着いた場合は、問題に関する理解も深まって、応用力が身につくため、類似問題の正解率も上昇します。「話し合い」は、一方通行の授業とは異なり、より本質的な理解や解釈をもたらすのです。

議論することの大切さは知れば知るほど身に染みるけど、文化にないと周囲の巻き込み方が慣れていないし、周囲も乗っかろうという雰囲気になりにくい。
本当にこれは幼少期から少しづつ取り組んでいくべきことだと思う。


「目覚まし時計は拷問だ」というレトリック

自閉症や統合失調症、あるいはアルツハイマー認知症の初期症状では、メタファーが理解できず、言葉を額面通りに解釈する傾向が強まるため、日常会話に支障が生じます。こうした背景から科学的究明が求められているのです。

言葉を尽くすことでその子に届きやすい言葉を探すべきなんだな。


「メタファー(喩え表現)を利用する」

このデータを別の言い方をすれば、「メタファーを利用すれば受けての脳を強く活性化できる」となります。表現技法のレパートリーを増やすことは、相手の心を揺るがすことにつながります。「受け手主導」という対人関係の大原則が逆転するかもしれないということに、私は強い魅力を感じます。

ただ額面通りに伝えるのではなくちょっとしたユーモアを交えたり、言葉選びのセンスがあることで、確かに話しやすくなる気がする。


脳は妙に使い回す やり始めるとやる気が出る

ヒトは社会的動物です。社会から孤立してしまっては、生きていくのがむずかしいでしょう。ですから、自分が除け者にされているかどうかを、敏感にモニターする必要があります。そのために社会監視システムとして、痛みの神経回路を使い回すとは、見事な発明であったといってよいでしょう。なにしろ、動物の痛覚系は敏感です。検出感度が高い痛覚系を活用すれば、感度よく社会反応を感知できるに違いありません。
進化を遡れば、もともと原始的な動物は、物質環境の中で身体的運動を行っていました。身体的移動は、「動く生物」たる動物を、植物と隔てる大きな特徴です。
動物は、この運動を統制するための装置として、筋肉と神経系を発明しました。高速の電気信号を用いて、すばやく運動を行おうというわけです。この神経系を、さらに効率的に発達させた集積回路が、いわゆる「脳」です。
たとえば、花のよい香りが漂ってくる場合、蝶々ならば、嗅覚系から匂いを感知して、脳に届けます。これが身体感覚からの入力です。脳はこれを「食物の場所だ」と読み解き、花のある方向に飛ぶように体を仕向けます。これが身体運動への出力です。
そして、正しく花の方向に飛ぶことができれば、匂いはより強くなります。この濃度の勾配の情報を仕入れることで、いま自分が正しい方向に飛んでいることがわかります。
この情報もまた身体感覚への入力です。つまり、身体と脳の間で、情報の流れがループになっているわけです。
ところが、ヒトのように大きな脳では、脳の自律性が高く、身体を省略して内輪ループを形成することができます。横着をして脳内だけで情報ループを済ませるのです。この演算こそが、いわゆる「考える」という行為。つまり、ヒトの心は、脳回路を身体性から解放して得られた産物です。
実際、脳を調べてみると、行動と心理作用に一見関係のない脳回路が共有されているという例にしばしば出くわします。苦味と嫌悪痛覚と心痛眼球運動と暗算などの関係性はよい例です。こうした事実は異なる脳機能が系統発生的な根源を共有していることを示唆しています。
痛覚回路を「社会的痛み」の感受に転用するとは、なんとも巧妙な応用を開発したものだと感心したくなりますが、生物学的にはこの方が理に適っていたのでしょう。
このように、本来は別の目的で機能していたツールを他の目的に転用することを「コオプト(co-opt)」と呼びます。一見する高次で複雑に見える脳機能は、意外と単純な神経システムがコオプトされたものと考えてよいでしょう。

この本の中でこのトピックが一番面白かった。
自分の体内でこんな省略が普通に行われていたことが驚きだったけど、言葉選びでも確かに似たようなニュアンスの言葉を使ったりしているしなと、案外納得できたし、コオプトのこと誰かに話してこの気持ちを共感して~~~と純粋に思った。

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