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マロンパン

個人店愛がやまない。
特におじいちゃんおばあちゃんがやっているアットホームなお店には無意識に足を運んでしまう仕様になっている。おいしくて買っているのか情で買っているのか分からなくなる。資本主義、競争社会において仮にも商業でやっている行為に慈悲で購入するのは消費者として正しい振る舞いなのだろうか。先日、池上彰の授業で「商品の購入は一種の投票なんですよ」と言っていた。売れる商品はこの世に残り続ける。自分が本当に世の中に残ってほしい好きな商品を選んで買うことは、商品さらにはお店の存続に一票を投じていることと同義という事だ。この老夫婦への情は紛れもなく個人的な感情だ。社会全体を考えた広い視野に立っての投票の意識は微塵もない。

その老夫婦が営むパン屋さんに毎朝寝癖をつけてパンを買いに行く。
3日連続で行った時から完全に存在を認識された。帰り際「明日は休みだからね」と、明日も来る前提の言葉をかけられた。明日も行くつもりだった。

おばあちゃんとおじいいちゃんは代わりばんこでレジに入る。
早朝のパン作りと陳列は一緒にやっているが店番は一人で入る。ばあちゃんの時はちょっとしゃべる。「そのブドウパンは甘くないよ、甘いのはこっち」同じところに並んでる同種のパンでも正直にいいほうを教えてくれる。甘くないパンの方が好きだが「じゃあこっちにします」と言って甘い方を買う。

じいちゃんは寡黙だ。
パンの値段を覚えてないから毎回レジに持って行ったときに「これは何円だったっけ」とレジを出て値札を見に行く時間がある。毎回自分で値段を確認しに行くのだが、ある日僕が「マロンパンは130円ですよ」というと、「そうかい」と言ってレジから出ることなく130円と入力した。絶対に客に任せてはいけない値段確認をすんなり受け入れた。心が温まった。認められたようで嬉しかった。実際130円だったから僕の言葉でおじいちゃんの中でも合点がいっただけなのかもしれない。それでも僕は嬉しかった。おじいちゃんと意味のある会話をできたことが何より嬉しかった。

おじいちゃんに「このお店長いんですか?」と聞くと「いつまでやるんだか、体がもつまでねぇ」としゃがれた声で答えた。こだわりの深い職人パン屋も好きだ。でもこういった己の体力の限界と日々格闘しながらつくるパンも好きだ。「経済との戦い」・「肉体との闘い」、日々たたかう二人の姿に敬服した。

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